見出し画像

30年日本史00818【建武期】護良親王、征夷大将軍となる

 建武の新政には、さらに内部対立の火種がありました。それは護良親王という敵を作りやすい人物の存在です。
 護良親王といえば、元々は尊雲法親王と名乗って比叡山延暦寺のトップである天台座主に就任した人物で、延暦寺では仏道修行よりも幕府打倒に向けた武芸訓練に明け暮れていたといわれる武闘派です。戦乱の中で還俗し、尊雲法親王改め護良親王と名乗り、大和信貴山城(奈良県平群町)に立て籠もっている最中に終戦を迎えました。
 この護良親王がいかに壮絶な戦いを経てきたかはこれまで述べてきたとおりですが、この護良親王の扱いについて父・後醍醐天皇はひどく悩むことになります。
 話は少し遡りますが、元弘3(1333)年6月13日、後醍醐天皇は信貴山の護良親王に対して側近の坊門清忠(ぼうもんきよただ:1283~1338)を派遣し、再度の出家を求める旨を伝えました。再び法親王に戻らせて、どこかの寺の座主に戻すつもりだったのでしょう。
 ところが護良親王はこれを拒否します。倒幕に功のあった自分に、何らかの役職をよこして政府に置けというのです。困った後醍醐天皇は、とりあえず話をしようと入洛を命じましたが、護良親王は入洛の条件として征夷大将軍のポストを要求してきました。
 征夷大将軍とは、これまで鎌倉幕府の将軍に与えてきたポストです。鎌倉幕府最後の将軍である守邦親王は(鎌倉滅亡時にどこで何をしていたか記録にありませんが)征夷大将軍を解任されたため、現在は空席となっていました。護良親王はその後任を狙ったのです。
 もちろん、征夷大将軍自体は武家を束ねる棟梁という意味であって、直ちに幕府を開くという意味ではありません。武芸に秀でた護良親王は、武家の頂点に立って武士を統率したかったのでしょう。
 さらに、護良親王が征夷大将軍に就くことは、他の誰かが鎌倉幕府のような組織を立ち上げることを防ぐ意味もあったと考えられます。護良親王が特に警戒していたのは、源氏の血を引き最大の勢力を誇る足利尊氏だったでしょう。
 後醍醐天皇は驚いたでしょうが、尊氏ら武家の勢力を押しとどめておきたいという点では、護良親王の意向と一致するものがあったのでしょう。天皇は坊門清忠と相談の上この要求を認め、護良親王は征夷大将軍に任ぜられました。これを受けて護良親王はようやく入洛しました。「太平記」によると、親王の傍で供奉する者は27万人もいたといいます。
 しかし、護良親王はあまりに敵を作りやすい性格でした。護良親王は足利家を一方的に嫌って対立を深めただけでなく、後醍醐天皇の側近たちとすら揉めてしまうのです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?