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30年日本史00460【平安末期】怪僧文覚 平家追討の院宣*

 出家した文覚は、
「仏道の修行というものがどの程度つらいものか、試してみよう」
と言って、藪の中で七日間寝るという難行に自らを投じました。
 毒虫に全身を噛まれながら、何の痛みも感じない文覚は
「なんだ、この程度のものか」
と言って、本格的な修行に出かけていったといいます。
 次に文覚が行ったのは、那智の滝に打たれるという修行でした。5日間打たれ続けたところで、文覚は意識を失います。気絶した文覚を見つけた近所の童が、助けを呼んで皆で文覚を引き上げました。ところが、息を吹き返した文覚は
「21日打たれるつもりだったのに、5日目で邪魔をされるとは」
と激怒し、そのまま再度滝壺に入っていったといいます。修行僧としてどうこう以前に人間としてどうかと思います。
 修行を終えた文覚は、いよいよ僧として活動を始めました。最初に手をつけたのは、高雄山寺の復興活動です。高雄山寺とは京都市右京区高雄にあった寺院で、現在は「神護寺」という名称で知られています。一時期は空海が住んでいたのですが、空海が高野山金剛峯寺に籠もってからは衰退し、文覚の時代には大いに荒廃していました。
 再興のためには予算が必要です。寺社のために寄付を募ることを「勧進(かんじん)」と言いますが、文覚はこの高雄山寺再興のための勧進をあまりに強引に取り立てたため、逮捕され伊豆に流罪となってしまいました。
 そして、伊豆において文覚と頼朝は共に流人として出会うこととなりました。文覚は頼朝に対し、
「これは牢番から手に入れた義朝様の首です」
と言ってしゃれこうべを示しながら、義朝の無念を訴え、平家を打倒すべしと薦めました。
 何事にも慎重な頼朝は
「後白河院のお許しもないのに謀反など起こせようか」
と拒絶しますが、文覚は
「では院のお許しがあればよいのだな」
と言ったかと思うと、僅か3日で伊豆から福原に赴き、後白河法皇の平家追討の院宣を持ち帰ってきました。驚異的な脚力です。
 院宣を見て安心した頼朝は、遂に平家打倒を決心し、院宣を首からかけて戦闘準備に入ったといいます。
 文覚が後白河法皇から平家追討の院宣をもらったというのは後世の創作でしょうが、文覚という男が煽動家として暗躍していたのは史実だったでしょう。

頼朝が父・義朝を祀るために建てた「勝長寿院」の跡。もし文覚が持ってきたしゃれこうべが本物ならば、ここに安置されたはず。文覚上人屋敷跡から程近い。ちなみに道が恐ろしく狭く、車で行くと恐怖を感じる。

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