30年日本史00971【南北朝初期】壬生寺の身代わり地蔵
具体的な年月は不明ですが、「太平記」はこの頃の壬生寺(みぶでら:京都市中京区)をめぐるエピソードを紹介しています。
南朝方の児島高徳は脇屋義助とともに伊予に渡っていましたが、義助の死後、本拠である備前国児島(岡山県倉敷市)に戻り、そこに脇屋義治を招致して決起しようと計画しました。あわせて、丹波国の荻野朝忠(おぎのともただ)が足利家に恨みを持っているとの情報が入ったため、児島は密かに連絡を取り、荻野を味方につけました。
児島と荻野は備前・丹波の両国で同日に挙兵しようと計画していましたが、この計画が北朝方に漏れてしまいます。丹波には山名時氏が3千騎で押し寄せ、荻野は呆気なく降伏に追い込まれました。
一方、児島には備前・備中・備後3ヶ国の守護勢が5千騎で攻め寄せてきました。児島高徳は当初の計画を捨て、脇屋義治を連れて海路にて京へ上り、幕府への夜討ちを計画しました。諸国から集めた南朝方の兵一千人を、東坂本、宇治、醍醐などに分散配置し、できるだけ計画が露見しないよう努めました。
いよいよ決行だという日の夜明け前に、南朝方の主力軍が潜んでいた壬生の宿に、北朝方の都築某が攻め寄せてきました。南朝方の兵の多くは矢を射尽くしてしまい、割腹して果てました。この結果、他の場所に隠れていた仲間たちも散り散りになり、児島高徳も脇屋義治も信濃へと落ち延びていきました。
このとき、壬生の宿に隠れていた兵たちはほとんど討たれたわけですが、香勾高遠(こうわたかとお)は一人で敵の囲みを破り、壬生の地蔵堂の中へと逃げ込みました。
香勾高遠が地蔵堂の中で数珠を手に大声で念仏を唱えたところ、北朝方の兵たちはこれを見て参詣人だと思い込み、特に気にしませんでした。一方、堂の脇にいた人影を見て
「そこに敵がいたぞ」
と言ってこれを捕縛し、牢に入れてしまいました。
ところが翌日に牢を見ると空っぽになっており、牢の中には良い香りが満ちていました。驚いた北朝方の兵たちが壬生寺の地蔵堂を見に行ってみると、地蔵菩薩の体が鞭によって黒くなっており、衣には縄の跡がついていました。なんと、兵たちが捕縛して連行して行ったのは地蔵菩薩だったのです。兵たちは罪を懺悔し、髷を切って出家したのでした。
この地蔵菩薩は「縄目地蔵」と呼ばれ親しまれてきましたが、昭和37(1962)年に火災によって焼失してしまいました。令和2(2020)年に復元され、再び一般公開されています。
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