見出し画像

どうする家康 第34回「豊臣の花嫁」

こんなに素晴らしい回になるとは思ってもみませんでした。ハンカチ必須の回でしたねえ。

軍隊編成を変更せねば

石川数正が秀吉方に下ったせいで、徳川家は急いで軍隊編成を変更せねばならなくなりました。
防衛上の情報は全て秀吉方に流れているとみられたためです。

もはや徳川家の運命は絶体絶命かと思われたところに、意外な事件が起こります。

天正の大地震

推定震度7の地震が近畿・東海地方を襲ったのです。
白川(岐阜県)の帰雲山には、今もなおこの大地震で発生した土砂崩れの跡が生々しく残っています。
ちなみに帰雲山を拠点とする内ヶ島氏理(うちがしまうじさと)という戦国武将がおりまして、彼は帰雲城を拠点としていたのですが。

天正の大地震で帰雲山に土砂崩れが発生し、帰雲城は跡形もなく全壊してしまいます。
運悪くこの日、内ヶ島氏理は家臣一同を招いて宴会を催していたのです。

内ヶ島家は、一族郎党みな、この地震で死んでしまいます。
自然災害によって武将が家臣もろとも滅亡するというのは、世界的にも珍しいことのようです。

この地震によって、秀吉が家康との戦いに備えるために兵糧や武器を蓄えていた大垣城(岐阜県大垣市)が炎上してしまいます。
秀吉はもはや戦どころではなくなってしまいました。

今度は秀吉側が人質を出す

家康との和睦を進めるほかなくなった秀吉は、今度は自分から人質を出すことで家康に臣従を迫ろうとします。
そこで人質として選ばれたのが、秀吉の妹に当たる旭姫でした。

旭は当時43歳。既婚者です。無理やり離婚させられて、浜松城の家康に嫁ぐこととなりました。
では旭の夫はどんな人物だったのかというと、どうもはっきりしたことが分からないのです。

まず『三河後風土記』によると、旭の夫は佐治日向守という人物でした。
彼は秀吉の指示で離婚させられたことを恥として、切腹してしまいます。

一方、18世紀に尾張藩士が書いた本『塩尻』によると、旭の夫は副田甚兵衛吉成という人物でした。
副田甚兵衛は切腹こそしていませんが、妻を失った後、ヤケを起こして隠居したといいます。

家康は旭を正室として娶ったものの、それでもなお、秀吉に臣従しません。
秀吉は、今度は母親をも送り込むことを決めます。

家康、遂に秀吉に臣従

浜松城で旭はどのような日々を過ごしたのか、後世の創作はいろいろありますが、同時代の記録はありません。
ただ、「母親も来る」と聞くと、
「自分がせっかく嫁いだのに、その効果を上げられなかった」
と悟って悲しんだ、という解釈はいかにももっともらしく思えます。

ともあれ、秀吉が母親まで送り込むと聞いた家康は、遂に秀吉への臣従を決めます

本ドラマの脚本で、注目に値するポイントは2つ。

(1)家康主従は、数正の思いを知って秀吉臣従を決めた

石川数正は、徳川家を守るために、秀吉VS家康の戦いを不可能とするために、あえて秀吉方に飛び込んだ、という解釈でしたね。
確かに数正の出奔によって家康が秀吉と戦うことはほぼ不可能になりました。
一方、天正地震によって秀吉も家康と戦うことが不可能になったのです。

この思いを理解した上で、断腸の思いで上洛を決める。なかなかの演出でしたね。

(2)上洛は「天下を取ることを諦める」ことを意味した

よくあるフィクション作品では、家康は
「一旦秀吉に臣従するけれども、これは一時的なものである。秀吉が死んだら、その後で天下取りを狙う」
と決意するのです。「鳴くまで待とう」の精神ですね。

しかし、実際にはこの時点で秀吉の死後のことまで見えていたとは思えません。「鳴くまで待とう」は家康らしさを表す言葉として有名ですが、家康が天下人となったことから後付けで作られたものでしょう。

戦国大河は同じエピソードを何度も繰り返すだけでなく、常に新しい要素を取り入れていますね。

さて、次回は大政所や石田三成が初登場。
真田も絡んで、秀吉政権下でのドロドロした人間関係が紹介される回のようです。

「関ヶ原の戦いがどのようにして起こったのか」は歴史好きでもなかなか説明しづらいのですが、この複雑な経緯をどう描いていくのでしょう。楽しみですね。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?