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30年日本史00541【鎌倉初期】秀衡死す

 文治3(1187)年10月、秀衡は病に倒れました。当然家督継承が問題となります。
 秀衡の子は6人いました。
・長男 国衡(くにひら:?~1189)
・次男 泰衡(やすひら:1155~1189)
・三男 忠衡(ただひら:1167~1189)
・四男 高衡(たかひら:?~1201)
・五男 通衡(みちひら:?~1189)
・六男 頼衡(よりひら:1174~1189)
 長男は国衡ですが、正室との間の子ではないため、家督継承権はありません。従って、秀衡はかなり早い段階で家督を次男・泰衡に継がせることを決定していたようです。
 国衡は「愚管抄」の中で
「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えける」
と記されており、武勇に優れた人物でした。家臣たちの中でも国衡の人気は高かったでしょうから、放っておくと家督争いが生じる危険があります。
 そこで、秀衡は晩年になってから、自らの正室である徳尼公(とくにこう)を国衡に嫁がせました。つまり、国衡を義理の母と結婚させたというわけです。
 現代からすると理解できない縁談ですが、当時、父の側室を子が娶るということはしばしばみられることでした。この婚姻の狙いは、国衡と泰衡を「兄弟」ではなく「義理の父子」とする点にあったと考えられます。兄弟ならば対立抗争を起こす可能性がありますが、父子であれば
「家督は泰衡が継承するが、泰衡は父たる国衡に従う」
という関係が生まれ、両者を融和できるというわけです。つまり、そのような婚姻を必要とするほどまでに、長男・国衡と次男・泰衡の関係は微妙なものであったと思われるのです。
 秀衡は死に瀕して国衡・泰衡・義経の三人を呼び、
「国衡・泰衡は義経を主君として仕え、三人で結束して頼朝の攻撃に備えよ」
と述べました。さらには
「各々が異心を持たぬように」
と起請文まで書かせました。
 そして10月29日、秀衡は亡くなりました。兄弟間の内紛や頼朝からの襲撃を危惧しながらの死でした。奥州藤原氏の家督は嫡男・泰衡が継ぐこととなりました。

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