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30年日本史00844【建武期】山崎の戦い

 さらに新田軍は挑発を続けます。
 大渡には橋がかかっていたのですが、新田軍は足利軍の攻撃を防ぐため、あらかじめ橋板を全て外していました。新田軍は、その骨組みだけの橋を
「十分渡れるだろう。渡って来い」
と言って挑発したのです。
 これを聞いた足利軍の野木頼玄(のぎらいげん)という武士が、幅の狭い橋に足をかけて渡り始めました。新田軍が次々と矢を射かけますが、頼玄は足場の狭い橋の上で飛び跳ねて矢をよけたり、刀で矢を落としたりして見事に橋を渡り切りました。
 橋の向こうには新田軍が築いた櫓がありました。頼玄が櫓の下に入り込んで柱を揺らし始めると、櫓は倒れんばかりに揺れ始め、上にいた兵たちは慌てて飛び降り、逃げていきました。
 勢い立った足利軍は、次々と骨組みだけの橋を渡り始めましたが、橋桁が突然割れて橋が落ち、渡っていた者たちが次々と落ちていきました。
 もはや筏も橋も役に立たず、淀川を渡る方法がありません。攻めあぐねていた足利軍に対し、突然使者がやって来て、
「赤松貞範殿の陣はどちらですか」
と尋ねてきました。赤松貞範(あかまつさだのり:1306~1374)とは赤松円心の次男で、このとき足利軍に加わっていたのです。これまで三男の則祐ばかり登場していましたが、次男の貞範は初登場ですね。赤松円心には長男・範資(のりすけ:?~1351)、次男・貞範、三男・則祐など多くの子がいるのです。
 貞範が使者からの手紙を見てみると、それは兄・範資からのもので、
「今、細川定禅殿とともに芥川(大阪府高槻市)に陣を構えている。これから山崎(京都府大山崎町)に攻め込む予定であるから安心するように」
との内容でした。
 山崎は、いま足利軍が対峙している新田軍の背後にあります。手紙を見た足利軍は
「味方が敵軍の後方から攻撃してくれる。もう大丈夫だ」
と喜び合いました。
 その日のうちに細川定禅と赤松範資は山崎に攻め込みました。脇屋義助が山崎城に立て籠もってこれを迎え討ちますが、細川・赤松軍は次々と堀に飛び込んで攻め入り、山崎城はやすやすと陥落してしまいました。
 山崎城にいた脇屋義助も、大渡の陣にいた新田義貞も、ともに京へと逃げ帰りました。このとき義貞を無事に逃がすため、義貞の子・新田義顕(にったよしあき:1318~1337)は殿(しんがり)として戦い続け、重傷を負いながらどうにか京にたどり着いたといいます。

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