見出し画像

30年日本史00015【旧石器】明大への怨念*

 相澤は平成元(1989)年に死去しました。未亡人の千恵子(ちえこ:1936~)氏は、群馬県桐生市の相澤宅を改築し、遺品を陳列し、平成3(1991)年に「相澤忠洋記念館」としてオープンさせました。一方、翌平成4(1992)年には、群馬県笠懸町にある岩宿遺跡の直近に「笠懸町立(現・みどり市立)岩宿博物館」が開館することとなりました。
 岩宿博物館がオープンするに当たり、初代館長に内定したのは戸沢充則でした。杉原の弟子で、矢出川遺跡の調査報告書をめぐって芹沢とトラブルになった人物ですね。その戸沢氏が、相澤千恵子氏を訪ねてきました。「相澤忠洋氏が岩宿で発見した石器を展示したいので、貸してほしい」というのです。
 千恵子氏が、
「相澤が岩宿以外の遺跡で発見した石器も含めて、相澤の業績を展示してほしい」
と主張したところ、戸沢氏は
「いや、岩宿以外の遺跡は要らない。岩宿の遺跡だけが欲しいのだ」
と主張し、両者は決裂しました。そもそも、千恵子氏は杉原の弟子である戸沢氏に最初から悪印象を持っていたのでしょう。
 次は森田満蔵・笠懸町長が千恵子氏のもとを訪れました。
「どうしても、相澤氏が発見した石器を展示したい」
というのです。というのも、岩宿博物館の屋根の形は、相澤が昭和24(1949)年6月に発見した石器をモデルに作られているのです。その岩宿博物館に相澤石器が展示されないというのは、「仏作って魂入れずになる」とまで言って、町長は石器の貸し出しを懇願しました。
 しかし、千恵子氏の出した条件は非常に厳しいものでした。
「館長の首をすげ替えてください」
というのです。
「戸沢氏ではなく、芹沢長介先生にしてください」
と千恵子氏は要望しました。
 町長が「今更それは無理だ。もう内定したことなのだから」と難色を示すと、千恵子氏は「それでは石器の貸し出しもできない」とはっきり断りました。相澤の明大への怨念は、千恵子夫人に受け継がれていたのです。
 こうして、両博物館は完全に決裂し、没交渉状態となりました。両者が和解するのは8年後。2代館長・松沢亜生(まつざわつぎお)氏が就任してからのことでした。

岩宿博物館の屋根の形状。左側の突起は石器の先端を、右側のアーチは石器の胴の部分をイメージしているらしい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?