見出し画像

30年日本史00041【縄文】石川千代松の功績*

 明治12(1879)年。2年間の東京大学勤務を終えたモースは、アメリカに帰国しました。その後、一度再来日しましたが、明治16(1883)年に日本を後にしてからは、日本の土を踏むことはありませんでした。しかし、日本への思いは強かったらしく、セーラム市の自宅を訪れる日本人をいつも温かく迎えました。
 晩年の大正12(1923)年には、関東大震災で東京帝国大学の図書館が全焼したと聞き、自らの蔵書を全て寄贈するよう遺言しました。
 さて、モースの帰国後、日本の考古学はいかにして発展してきたのでしょうか。
 モースの弟子のうち大成した人物としては、前述の佐々木忠次郎のほか、石川千代松(いしかわちよまつ:1860~1935)の名を挙げることができるでしょう。
 石川千代松は明治34(1901)年から40(1907)年にかけて動物園監督(上野動物園長)を務めました。
 余談ですが、石川千代松の大きな功績としては、日本で初めてジラフを購入・展示したことが挙げられます。
 当時、海外にならって日本でも「動物園」なるものを設置したものの、当初展示されていた動物はイノシシやタヌキなど、田舎に行けば簡単にみられるものばかりでした。客入りも悪く、動物園は存続の危機にさらされていました。
 そんな中で監督に着任した石川は、
「日本に生息しない動物を海外から輸入しなければならない。それも、大いに話題となり客の呼び物となる動物が必要だ」
と考えました。そこで石川が目をつけたのが、ジラフでした。
 しかし、ジラフの購入費用は極めて高額で、大蔵省への予算要求は困難を極めました。大蔵省の役人は、
「そんなものがなぜ日本に必要なのか」
と詰め寄ります。
 そうした状況下で、石川が思いついたのが、ジラフを「麒麟(きりん)」と翻訳するという作戦でした。なるほど、ジラフは中国の伝説上の珍獣「麒麟」とよく似ています。そして、麒麟は「泰平の世に現れる獣類の長」とされています。国際関係が悪化し不安な世情だからこそ、日本に麒麟を呼び込むことで民心の安定が図られるはずだ……と、石川がそこまで説明したかどうかは分かりませんが、うまく大蔵省を丸め込み、石川は予算獲得に成功したのです。
 麒麟ことジラフの展示は大いに話題を呼び、多くの客を呼び込むこととなりました。石川千代松は単なる動物学者にとどまらず、官僚としても異能を発揮したといえるでしょう。

遮光器土偶が発掘された亀ヶ岡遺跡の最寄駅である木造駅(青森県つがる市)。左足が欠けている点も含めて造形されている。電車が来ると目が光る。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?