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30年日本史00492【平安末期】義仲逃亡

 六条河原で範頼・義経軍が根井行親・楯親忠と激戦を繰り広げていた頃、義経はその戦闘には参加せず、戦闘は家臣らに任せて真っ先に六条殿に向かいました。公家たちは
「義仲が戻ってきたのではないか」
と恐れましたが、入ってきたのが義経軍と知って安堵しました。平業忠(たいらのなりただ:1160~1212)は転んで腰を打ちますが、嬉しさのあまり痛みを感じなかったといいます。
 一方、六条河原で敗北した義仲は、敵の包囲網を突破し、わずか300騎で近江国粟津(滋賀県大津市)へ至り、瀬田を守っていた今井兼平と合流しました。
 このときの義仲と兼平のやり取りは、一般的な武士の主従関係とは思えないものです。義仲が
「六条河原で討ち死にしようかと思ったが、兼平に会いたくなりここまで逃げてきた」
と言うと、兼平は
「私は瀬田で討ち死にしようかと思ったが、主人に会いたくなりここまで逃げてきました」
と答えたというのです。この兄弟同然に育ってきた二人が、いかに深い関係を築いてきたかが伝わりますね。
 兼平と合流した義仲らは、今度は一条忠頼(いちじょうただより:?~1184)の6千騎の大軍に包囲されてしまいます。敵軍を切り倒しながら逃亡したところ、義仲らは50騎に減っていました。
 その義仲らを、さらに土肥実平の2千騎が待ち構えていました。そこを撃破して進むと義仲らは5騎に減っていました。
 このとき、義仲と今井兼平のほか、まだ残っていたのが女武者・巴です。義仲は巴に、
「最後に女といたと言われたくないから、どこへでも落ち延びよ」
と言います。本当は巴の身を気遣ってのことでしょうが、義仲はあくまで「自分の名誉のために別れてくれ」と理由をこじつけたのです。巴は気丈にも
「それは最後の戦をして見せてからにする」
と答え、義仲に付き従いました。
 次にやって来たのが、恩田師重(おんだもろしげ:?~1184)率いる30騎でした。巴はその30騎の中にさっと入っていって、恩田師重と組み合い、その首をねじ切って捨ててからどこへともなく去っていきました。
 巴のその後の行方は知れませんが、出家したとか、鎌倉に召されて武家の妻になったとか、様々な伝説があるようです。

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