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30年日本史00506【平安末期】藤戸の戦い

 源範頼率いる平家追討軍は、西国へ向かいました。
 屋島にいる平家軍を叩くためには、どうしても海上戦を遂行可能な水軍を持つ必要がありました。瀬戸内海の西国武士団を味方に付けるべく、範頼は寿永3(1184)年10月に安芸国(広島県)にまで進出しましたが、味方をしてくれる武士団はなかなか現れませんでした。
 そこに、屋島から船2千艘を率いて来た平行盛(たいらのゆきもり:?~1185)が、藤戸(岡山県倉敷市)の城に立て籠もり、範頼軍の補給線を絶ってしまいます。11月には範頼軍の兵糧が欠乏し、士気も低下してきました。
 この平行盛が立て籠もった藤戸城は水に囲まれており、馬で攻め寄せるのは困難だったことから、平家軍は源氏方をたびたび挑発し、源氏方はこれを腹立たしく思っていました。
 ここで作戦を練ったのが、源氏方の佐々木盛綱(佐々木四兄弟の三男)です。盛綱は地元の若い漁師に地形を尋ね、本土から城まで浅瀬で辿れる道順を聞きました。盛綱は必要事項を一通り聞き終えると、口封じのためその漁師を殺してしまいます。
 12月7日。盛綱は馬に乗ったまま郎従6騎を率いて、浅瀬を辿って藤戸の城に行き着き、行盛たちを追い落としました。平家軍は敗走し、屋島へと帰っていきました。
 このとき不憫にも殺された若い漁師の運命に、室町時代に能を創始した世阿弥(ぜあみ:1363~1443)は深く感じ入ったらしく、なんとこの漁師を主人公にした「藤戸」と題する能を作本しています。そのストーリーは次のようなものです。
 藤戸の戦いの功績により、備前国児島(岡山県倉敷市)を領地に賜った佐々木盛綱は、初めて領地入りしたときに一人の老婆と出会います。その老婆は盛綱が殺した漁師の母親でした。初めはシラを切っていた盛綱も、老婆による再三の追及とその哀れな様子に心を動かされ、とうとう漁師を殺したことを告白しました。告白を聞いた老婆は半狂乱となり、
「自分も殺せ、あるいは我が子を返せ」
と盛綱に迫ります。盛綱は老婆をなだめ、漁師をよく供養することを約束し、家に帰らせました。
 その後盛綱が、藤戸の海辺で経を読んで漁師を弔っていたところ、漁師の亡霊が海上に現れました。亡霊は無惨にも殺された恨みを伝えに来たのですが、意外にも供養を賜ったことに感謝し、彼岸に至って成仏しました。
 世阿弥は、平家物語を読んで想像力を膨らませてこのような能を作ったのでしょう。戦争によって罪のない一般人が理不尽に殺される運命にこそ、スポットを当てたかったということでしょうか。

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