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30年日本史00749【鎌倉末期】笠置陥落

 元弘元/元徳3(1331)年9月28日。笠置山を包囲していた幕府軍の中に、備中国の武士・陶山義高(すやまよしたか)がいました。陶山は一族を集め、
「数日攻めても落とせないこの城を、応援が来る前に我が一族だけで攻め落としてみせようぞ」
と述べ、組織的な攻撃が行われる前に抜け駆けして、功績を独り占めしようと息巻いていました。
 陶山一族は夜遅く、風雨に紛れて天皇方の陣地に忍び込みました。護衛の武士に見つかり声をかけられたものの、陶山たちが味方を装い、
「夜の巡視をしているところだ」
と答えたところ、それ以上追及されることはありませんでした。
 陶山たちは十分に陣地深くに入り込んだところで、館に火をかけて一斉に鬨の声を上げました。天皇方は「さては裏切り者が出たか」と思い大混乱に陥り、そのまま翌29日未明に笠置山は陥落してしまいます。
 後醍醐天皇は百姓の姿に扮して辛くも脱出し、楠木正成が立て籠もる下赤坂城を目指すこととなりました。随行するのは、側近の万里小路藤房とその弟の季房(すえふさ:?~1333)だけでした。
 天皇と公家2名。生涯で道を歩いたことがほとんどない3人が、険しい山道を進むことになりました。地図もないまま飲まず食わずで3日間歩き続けて、一同がやって来たのは、山城国有王山(京都府井手町)の麓でした。赤坂城からむしろ遠ざかっており、敵の多い京に近づいてしまっています。まあ案内人がいない中での逃避行ですから、仕方がないでしょう。
 松風の音を聞き、
「そろそろ雨が降りそうだ」
と思った後醍醐天皇は木陰に身を寄せましたが、今度は木から露が落ちて来ました。雨をしのげる場所がなく困った天皇は、
「さして行く 笠置の山を 出でしより あめが下には 隠れ家もなし」
と詠み、ままならない現状を嘆きました。これを聞いた万里小路藤房は
「いかにせん たのむ陰とて 立ちよれば 猶袖ぬらす 松の下露」
と詠み、天皇を気遣いました。
 ここまで粘り強く戦ってきた後醍醐天皇に、遂に敵の手が迫ろうとしています。

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