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30年日本史00869【建武期】桜井の別れ

 京を出立した楠木正成は兵庫に向かいますが、その途上、桜井の宿(大阪府島本町)で数え11歳になる嫡男の正行(まさつら:?~1348)を近くに呼び寄せ、
「お前は次の合戦には連れて行けない。河内に帰れ」
と諭します。最後まで父と共にいたいと言う正行に対し、正成はこう述べました。
「今度の合戦は天下分け目のものになるだろうから、お前の顔を見るのもこれが最後だろう。もし父が討ち死にしたと聞いたなら、世は足利のものになると心得よ。そうなったとしても、命を惜しんで長年の忠義を捨てるようなことがあってはならない。生きている限りは金剛山(赤坂城や千早城のある場所)に立て籠もり、敵と戦い続けよ。それこそ父への最大の孝行となるのだ」
 そう言って正成は、正行を側近の恩智満一(おんちみつかず)に預けて河内の家に帰らせました。恩智左近こと恩智満一は架空人物との説もありますが、大阪府八尾市の恩智駅周辺に墓もあり、地元では人気のある武将です。
 このとき、正成は自らの死を確信していたようです。確実に敗北する戦になるならば、父子で一緒に戦死するよりも子が生き残ってゲリラ戦を展開した方が、最後の最後に勝利できる可能性が高まるということでしょう。正成らしい発想です。
 このエピソードは「桜井の別れ」というタイトルで能の題材となり、ひどく有名になりました。戦前の教科書に必ず載っていましたし、明治時代には「桜井の訣別」という唱歌も作られ、多くの学校で歌われていました。その歌詞をご覧いただきましょう。
1番「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か」
2番「正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて 父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん 汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ」
3番「父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん この正行は年こそは 未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅」
4番「汝をここより帰さんは わが私の為ならず 己れ討死為さんには 世は尊氏のままならん 早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為」
5番「この一振りはいにし年 君の賜いし物なるぞ この世の別れの形見にと 汝にこれを贈りてん 行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん」
6番「共に見送り見返りて 別れを惜しむ折りからに またも降り来る五月雨の 空に聞こゆるほととぎす 誰れか哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を」
 この歌が愛唱された上、大阪府島本町には涙の別れを遂げる正成と正行の像も作られ、「桜井の別れ」は戦前期には誰もが知るエピソードとなっていたのです。

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