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30年日本史00395【平安後期】殿上闇討ち事件

 鳥羽天皇の時代に、武士の台頭を示す象徴的なエピソードがあります。
 源義親の乱や源義忠暗殺事件によって、源氏が没落して平氏が台頭してきたことは既に述べました。
 この頃、源氏の棟梁は源為義です。一方で、平氏の棟梁は平忠盛(たいらのただもり:1096~1153)となっていました。忠盛は、源義親の乱を平定した平正盛の子です。
 大治5(1130)年。その平忠盛が院御所で開催された和歌会に呼ばれたことは、貴族らに衝撃を与えました。公家は公家、武家は武家と、これまで完全に分けられていた身分秩序に風穴が開いたわけです。
 忠盛はこの前年、瀬戸内海の海賊を追討した功績によって名が売れ始めていました。とはいえ、貴族たちは「海賊を追討するなどという体を張った仕事は、所詮は武家の仕事」と見下していたのでしょう。その忠盛が自分たちを脅かす存在となってきたことに驚いたようです。
 忠盛は更なる昇進を目指し、天承2(1132)年には「得長寿院」と呼ばれる荘園を鳥羽上皇に寄進しました。この功績により、忠盛になんと昇殿が許されることとなりました。
 昇殿とは、内裏の清涼殿にある「殿上の間」に昇ることをいいます。これが許されるのは、「三位以上又は参議以上」と決まっており、それ以外の者に例外的に昇殿を許すには、勅許が必要でした。
 このとき、忠盛は従四位下(じゅしいのげ)ですから、三位には達していません。勅許により昇殿が許されたのです。忠盛はその喜びを、
「嬉しとも なかなかなれば いは清水 神ぞしるらむ 思ふ心は」
と詠んでいます。「恐れ多くて嬉しいとは言わない」と言いつつ、「石清水(いわしみず)の神だけが私の心を知っている」と掛詞を使っていますが、あまり上手な歌ではないですね。
 この忠盛の昇殿をめぐって事件が勃発します。嫉妬した公卿らが殿上で忠盛を闇討ちしようとしたのです。犯人が誰なのかは伝わっていません。
 闇討ち犯は、忠盛に襲いかかるべく息を殺して忠盛に近づきますが、忠盛はなんと殿上では許されないはずの刀を身につけていました。帯刀している武士に敵うはずがありません。犯人らは闇討ちを諦めます。
 この後、誰からともなく「忠盛は殿中で帯刀していた」という話が流れ、問題となりました。恐らく闇討ちする側も帯刀していたはずなのに、自分のことを棚に上げて何を言っているのでしょうか。
 鳥羽上皇は忠盛を呼び出し、問いただしました。忠盛が「私が帯刀していたというのは、この刀のことですか」と言って取り出したのは、なんと銀箔を付けた木刀でした。忠盛は自分を闇討ちする者がいると知り、あらかじめ武装したふりをしていたのでした。
 この準備の良さには鳥羽上皇も絶賛し、忠盛の名声はさらに高まることとなりました。

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