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30年日本史00880【建武期】叡山合戦 光澄の内応

 延元元/建武3(1336)年6月16日、比叡山を攻めあぐねていた足利軍のもとに、熊野(和歌山県新宮市)の庄司たちが援軍にやって来ました。彼らは鎧兜に籠手、脛当て、半頬、膝鎧と隙間なく完全に武装していて、いかにも強そうに見えました。
 喜ぶ高師久に対して、熊野の庄司は
「紀伊育ちの者たちは幼い時から険しい所、岩場に慣れております。この程度の山で難所だと思うことはないでしょう。武具は我らが自ら作ったもので、たとえ弓の名手・八郎為朝殿(源為朝)でも射通すことはできますまい。我らが前面に立って敵を倒してご覧に入れましょう」
と述べ、その自信満々な態度に、足利方の兵たちは不愉快な気持ちになったといいます。この後どうなるのか簡単に予想できる露骨なフラグですね。
 高師久の指示で、6月17日朝から熊野勢を先駆けとした足利勢20万騎で攻撃が始まりました。
 後醍醐天皇方でこれを迎え討ったのは、弓の名手・本間重氏と相馬忠重(そうまただしげ)です。二人もまた自信満々に、
「今日の戦いでは刀は不要でしょう。我ら二人の矢だけで敵の肝を潰してやりましょう」
と言って、弓を持って松の木陰に立ちました。
 熊野の庄司たちの中には、背丈の大きな大男がいましたが、本間がそれに向けて矢を放つと、矢はその大男の鎧を射通しました。その後ろには、さらに一回り大きな大男がいましたが、相馬が放った矢がその大男の鎧を射通します。二人とも即死でした。これを見た足利勢の20万騎は恐れをなして次々と逃げ出し始めました。
 足利方が手詰まりとなっていたところに、比叡山の光澄(みっちょう)という僧から密かに申し出がありました。
「私の配下の今木隆賢(いまきりゅうけん)という僧を案内役にするので、敵に知られずに山上にやって来てください」
というのです。比叡山の中にも密かに足利方につこうとする裏切り者がいたのですね。
 師久は喜んで兵500人を今木隆賢につけました。6月18日夜、兵たちは秘密の山道から山上を目指し始めました。
 ところが天が後醍醐天皇に味方したらしく、隆賢は長年住みなれているはずの比叡山で突然道に迷ってしまいました。山上に到達しないうちに夜が明けてしまい、一同は僧兵らに取り囲まれてしまいました。隆賢も光澄も捕らえられ、僧兵たちに直ちに斬首されてしまったのです。

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