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どうする家康 第27回「安土城の決闘」

緊迫感が半端ない回でしたね・・・!
そもそも安土城で決闘など行われていないのですが(笑)、まさに決闘という感じの丁々発止のやり取りが印象的でした。

安土城での饗応

本能寺の変が6月2日の出来事。
そして家康が安土城を訪問し、饗応役の明智光秀から接待を受けたのが5月15日の出来事。
本当に本能寺の直前なんですねえ。

明智光秀が饗応役を務めていたことは、吉田兼見の日記に書かれているので、間違いなく史実です。しかし、江戸時代になってから
「本能寺の変の原因はここにあったのでは?」
との憶測から、この饗応の際の出来事について様々な創作が生まれてしまい、何が史実なのか分からなくなってしまいました。

例えば、
「明智光秀が家康に提供した鯉が腐っていて、異臭を放っていた。これに怒った信長は光秀を折檻するとともに饗応役から解任した。明智はこれを恨みに思って謀反を起こした」
といったよくある描写は、全て江戸時代以降の創作です。

では、本能寺の変の動機について、怨恨説は全く根も葉もないデタラメな説なのかというと、必ずしもそういうわけではありません。
同時代の人間が書いた回顧録としては、宣教師ルイス・フロイスのものが残っており、こんなふうに描写されています。

「(信長は)その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(家康のこと)と、甲斐邦の主将(穴山のこと)たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀のこと)に下命した。
これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。

ルイス・フロイス『日本史』より

まあ、どこまで本当なのか分かりませんが、信長とも光秀とも会ったことのある同時代人のフロイスがこう書いているわけで、フロイスの耳にこんな噂話が入ってきたことは事実なのでしょう。

今回の大河では、江戸時代の創作話である「鯉が腐っていた」というエピソードに、さらに創作を加えて、
・光秀が鯉料理に毒を仕込もうと提案
・信長がそれを却下
・しかし家康が鯉に手をつけなかったので、信長は光秀が勝手に毒を仕込んだものと誤解し、激怒
という流れになっていましたね。

信長公のおもてなし

岐阜では「信長公のおもてなし」と題して観光客を呼び込んでおり、2012年には長良川温泉でこんな料理も提供されていたようです。

これ、右下の料理が気になりますねえ。

なんと、安土城での家康への晩御膳が提供されているとは!
でも、なぜか鯉料理が入っていないですねえ。
目の前で信長が光秀を打ち据えるところも再現してくれるのでしょうか。
(飯がまずくなる気もしますが)

信長と家康の対決

そして信長と家康の12分間の対決。非常に見ものでしたね!
(あくまでこのドラマ上の、ですが)信長と家康の思想の違いが如実に表れていました。

使えない者は切り捨て、何でも一人で乗り切り、人を殺すことをためらわない信長。
使えない者も使い、家臣を無心に信頼し、自分の弱さを知っている家康。
どちらが太平の世を築くにふさわしい人物なのか、明白です。
戦国乱世を終わらせるには信長のようなデストロイヤーが必要だったのかもしれませんが、その役割は終わったのでしょう。

そして今回初めて信長の内面とその苦悩が描かれました。万事順調に見える信長は、かくも追い詰められていたんですね。
信長は自ら進んで討たれるためにごく少数の手勢とともに入京し、本能寺に宿泊します。
あまりに少人数過ぎて不思議なのですが、こういう理由を仕立てるとは、なるほどです。

次回、どうなるの?

それにしても、次回がどうなるのか気になります。
史実では、本能寺の変のとき、家康は穴山梅雪とともに堺にいたはずなんですが・・・。
今回大河では信長を討つために京に潜伏するようですね。一体どんなふうに史実に着地させるのでしょう。
次回も楽しみです!

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