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30年日本史00007【旧石器】旧石器時代の発見者、相澤忠洋*

 さて、いよいよ旧石器時代の発見者、相澤忠洋(あいざわただひろ:1926~1989)を紹介しなければなりません。
 相澤は、大正15(1926)年、東京府羽田に住む貧しい旅芸人の息子として生まれました。羽田から横浜に、さらにその後鎌倉に移り住み、7歳のとき近所の工事現場で土器片を拾ったのをきっかけに考古学に興味を持ち始めます。8歳のとき妹が死んだことが契機となって両親の仲が険悪になり、9歳のとき母が家出してしまいます。父は旅芸人ですから、一人で子供たち4人を育てることができません。4人兄弟は散り散りになって、親戚などに引き取られることになりました。相澤は、浅草の履物屋で丁稚奉公(でっちぼうこう)することとなります。
 相澤の生活は、日中は履物屋の仕事をこなし、夜は尋常小学校に通うというものでした。履物屋の主人は「商人には学は要らない」と言い、相澤が夜遅くまで勉強していたことが分かると叱り付け、翌日の朝食を抜きにしたといいます。そんな厳しい環境の中で、相澤は学問を身につけたのです。
 昭和12(1937)年、相澤は学校教師の薦めで上野の帝室博物館(現在の東京国立博物館)を見学します。そこで閉館時刻までずっと石器を見ていると、守衛の数野甚造(かずのじんぞう)と仲良くなりました。数野はたまたま考古学の造詣が深く、相澤は休日に頻繁に数野の家を訪ねて石器や土器の話を聞くようになります。
 相澤は尋常小学校を卒業後、浅草の富士青年学校(現在の中学校に当たる)に入校。そこを卒業して間もなく、昭和19(1944)年に海軍に入隊します。相澤は、瀬戸内海の艦上で終戦を迎えることになります。
 戦後、相澤は群馬県桐生(きりゅう)市に住み始め、納豆の行商を営むようになりました。商売のかたわらで、趣味の発掘にも熱中していました。
 戦前期には、考古学は陽の目を見ない学問でした。皇国史観が席巻し、古事記や日本書紀に適合しない歴史を排除しようとする政府の思惑があったのです。例えば、「紀元前660年に神武天皇が即位した」といった伝承を歴史的事実と断定し、それを疑うことができない環境だったのです。そのため、古代以前の人々の暮らしを解明しようとする考古学は、おおっぴらに研究できないものでした。戦後になってようやく学問の自由が保障され、考古学が一挙に花開くこととなりました。全国各地の遺跡発掘が進んでいったのです。
 こうした環境の中、相澤もまた、桐生市付近の遺跡発掘に関心を引かれていきます。しかし、当時の学者たちはプライドが高く、専門教育を受けていない研究者を蔑視していました。群馬県には縄文時代の遺跡がたくさんあったものの、そこで発掘している学者たちは専門教育を受けていない相澤に対して冷淡で、なかなか発掘に加わらせてもらうことはできませんでした。相澤はやむなく、学者の手がまだ入っていない地区を細々と発掘するしかなかったのです。

相澤忠洋氏の肖像。日本図書センター刊の相澤忠洋氏の自伝より。


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