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30年日本史00394【平安後期】頼長の性生活

 藤原頼長の日記「台記」は、自身の性生活を赤裸々に綴っていることでも知られています。
 当時の公家社会では男色が流行していました。下位の者が上位の者に身体を捧げることで政治的な地位を得ようとしたり、肉体関係を持つことで高度な信頼関係を構築したりするのが自然な時代だったようです。そうだとしても、頼長ほどに全てをさらけ出した日記が残っているのは非常に珍しいようです。
 例えば藤原隆季(ふじわらのたかすえ:1127~1185)との関係について、天養元(1144)年4月3日の段にこんな記述があります。
「戌の終り、或る卿三と同車し余は水干、或る受領讃宅に泊す。天明に及びて皈る。去年より書を通ずと雖も、全く返報せず。今夕始めて会合す。如意輪供已に以て成就するなり」
(午後9時近く、水干を着てあの人の家に宿泊した。明け方までいた。去年から手紙を出していたが全く返事がなかった。今夜初めて会う。如意輪観音に祈祷したおかげである)
 この隆季と最初に関係を持つのは、久安2(1146)年5月3日のことになります。
「子の刻、或る人讃と会合す、花山においてこの事有り、本意を遂げ了んぬ。泰親の符術に依る也、彼人年来固辞す、而して三月泰親符を進む。其の後未だに言を通ぜず、今日一日、彼人逢うべき由を送り示す。これに因りて宝剣一腰を泰親に賜い、泰親に褒美するの書を加える」
(午前0時頃にあの人と花山の家で会った。遂に本意を遂げることができた。3月に陰陽師の泰親に符術を頼んだおかげである。泰親には宝剣一腰をあげて褒美としよう)
 意中の相手と出会うため、さらには落とすために、祈祷や陰陽師の力まで借りていることが分かります。
 頼長はさらに隆季の弟・藤原成親(ふじわらのなりちか:1138~1177)とも関係を持っており、より直截な記述があります。
「遂にともに精を漏らす、希に有る事なり。此の人、常に此の事有り。感嘆尤も深し」
 当時の貴族の日記は、自分の備忘録というだけでなく、子孫に残すことによって仕事の仕方や宮中での振る舞い方を教えるという役割もあったはずです。事実、頼長だって先祖である道長の日記「御堂関白記」を読んで勉強していたはずです。それなのに、なぜこんな秘事をあけっぴろげに書き残してしまったのか、理解に苦しみます。
 さすがに、頼長自身書いたものを後世に残すつもりはなかったのかもしれません。頼長はこの後、保元の乱という未曽有の戦乱で不慮の死を遂げることとなるのですが、そのような死を迎えたおかげで我々はこの貴重な日記に触れることができているのかもしれません。

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