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30年日本史00838【建武期】偽綸旨の効用

 手越河原での敗戦を聞いた鎌倉の足利勢は驚き、棟梁たる尊氏に出馬するよう説得を重ねました。
 このとき、尊氏がいかにして出陣を決意したのか、「梅松論」と「太平記」ではだいぶストーリーが異なっています。
 まず「梅松論」によると、尊氏は
「帰洛せよとの帝のご命令には従いたかったが、鎌倉を離れるわけにいかず、心ならずも帝に背いてしまった。帝への恐懼の思いから政務を直義に任せて出家しようと思っていたが、直義が苦戦していると聞いた。もし直義が戦で落命するようなことがあれば、私自身生きていても無益である。直義を救わなければならぬ」
と述べて出陣を決定したと書かれています。
 後醍醐天皇への忠誠と弟の命とを天秤にかけて、最終的には弟の命を選択したようです。原文では「守殿(直義のこと)命を落されば我ありても無益なり」とあり、強い兄弟愛が読み取れる部分です。まさかこの後兄弟間で壮絶な戦争を引き起こすとは思えないですね。
 一方「太平記」は、敗走した直義が鎌倉に戻る場面から書き起こしています。
 直義が兄の様子を尋ねたところ、まさに出家しようとしているところを皆で止めているとのことでした。直義家臣の上杉重能(うえすぎしげよし:?~1350)が一計を案じて
「たとえ出家しても帝のお咎めを逃れられない、と分かれば殿もお考えを改められるのではないでしょうか」
と進言します。直義はこの進言を容れて、上杉重能とともに偽の綸旨を作成します。
 その偽綸旨とは、後醍醐天皇の名において甲斐の武田一族や信濃の小笠原一族に宛てられたものでした。
「足利尊氏・直義以下一族の者をここに征伐する。この者どもはたとえ隠遁して法体になったとしても、その刑罰を緩めてはならない。その居所を探してすぐに誅罰すべきである。戦功のある者には格別の恩賞を与える」
 直義はこれを持って尊氏のもとへ行き、
「これは先日の戦いで倒した敵兵が身に着けていたものです。たとえ出家しても処刑を免れることはないようです。どうか出家は考え直してください」
と述べました。尊氏はこの偽綸旨にすっかり騙されて、
「かくなる上は致し方ない。私も義貞と一戦交えて、武士らしい最期を迎えよう」
と言って袈裟を脱ぎ、鎧直垂を身に着けて出陣の準備に入りました。

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