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30年日本史00812【建武期】後醍醐天皇帰洛

 勝者となった後醍醐天皇が京に凱旋するべく伯耆国船上山(鳥取県琴浦町)を出発したのは、元弘3/正慶2(1333)年5月23日のことでした。つまり北条高時ら幕閣が東勝寺で自害した翌日のことです。まだ鎌倉陥落の報は西国まで届いていないはずですが、もはや負けることはないと判断したのでしょう。
 上洛の途上の5月25日に、後醍醐天皇は
「量仁(光厳天皇)の即位は無効である。ゆえに量仁によって行われた除目(人事異動)も全て無効である」
と宣言しました。同様に、光厳天皇が発した「正慶」への改元も無効となり、元号は相変わらず「元弘」のままということになりました。
 後醍醐天皇は笠置陥落後に六波羅に幽閉されていた際、幕府の命によって三種の神器を光厳天皇に渡したはずです。それなのになぜ光厳天皇の即位が無効なのかというと、なんと後醍醐天皇は
「あのとき量仁に渡した神器は、あらかじめ用意しておいた偽物だったのだ」
と主張したのです。三種の神器なき即位は(後鳥羽天皇という例外がありますが)確かに無効です。それにしても、あのような極限状況において神器の偽物を用意する時間がどこにあったというのでしょうか。
 この後醍醐天皇の主張が虚偽である可能性は高いでしょう。というのも、隠岐から脱出して船上山に滞在していた頃、後醍醐天皇が出雲大社に
「草薙の剣の代用品を貸して欲しい」
と綸旨を発する文書が現存しているのです。仮に本物の神器を自分で持っていたのなら、代用品など不要なはずです。
 6月4日に後醍醐天皇は東寺に到着しました。ここから内裏に帰るに当たって、「重祚(二度目の即位)」という形式で儀式を行うのがよいのか、行幸から戻った「還御」という形式で儀式を行うのがよいのか、公卿の間で議論となりました。後醍醐天皇の主張は一貫しており、当然に「還御」という形式がとられました。後醍醐天皇は一度も天皇の地位から降りていないというわけです。
 6月6日に天皇は内裏に入りましたが、先陣が二条富小路の内裏に入ったとき、後陣はまだ八条の東寺にいたというほど仰々しい行列だったといいます。これを見たある人は
「昔だに 沈む恨みを おきの海に なみたち返る 今ぞかしこき」
(一時は隠岐に流罪となった帝が、波が寄せて返すように京に戻って来られた)
と詠み、天皇の復活に賛辞を捧げました。

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