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30年日本史00843【建武期】大渡の戦い

 建武3(1336)年になりましたが、反乱軍がいつ攻め込んでくるか分からないという緊急事態だったため、宮中では例年元日に行われるはずの儀式も行われませんでした。
 1月7日。近江国に入った尊氏軍は、印岐志呂神社(いきしろじんじゃ:滋賀県草津市)に立て籠もる僧兵・成願坊(じょうがんぼう)の軍を攻め落としました。
 1月8日には尊氏が石清水(京都府八幡市)に、細川定禅が芥川(大阪府高槻市)に、久下時重が大江山(京都府福知山市)に、それぞれ陣を布いて京へ攻め上る準備を整えました。
 新田義貞は、
「まずは弱そうなところから攻めるべきだ」
と述べ、大江山の久下軍に対して配下の江田行義(えだゆきよし)を送り込みました。江田の攻撃により久下軍はひどく苦戦し、大将たる時重の弟・長重(ながしげ:?~1336)が戦死するほどの大損害を受けて撤退して行きました。義貞の作戦通りです。
 1月9日。尊氏軍はいよいよ京に攻め入ろうと、大渡(おおわたし:京都府八幡市)へとやって来ました。大渡とは宇治川と木津川と桂川の三川が合流する地点のことで、合流後の流れを「淀川」と呼びます。
 足利軍が淀川の南側にいるのに対し、新田義貞らは北側に陣を構え、
「この川は宇治川より浅くて渡りやすい川ですぞ。かつて源平の合戦において足利忠綱や佐々木高綱が宇治川を渡り、名を上げました(00454回参照)。皆さんも渡ってみてはいかがですか」
と足利軍を挑発して来ました。しかし淀川の流れは深い上に幅も広く、とても渡れるものではありません。
 この挑発に乗った者たちが馬で淀川を渡ろうとし始めたのを、足利家執事・高師直は走り回って、
「気でも狂ったのか。この大河は馬の脚も立たない深さだ。落ち着いて、周辺の民家を壊して筏を作って渡ろうでないか」
と皆を諫めました。さすがに頭に血が上っていた兵たちも落ち着きを取り戻し、木材で筏を大量に作って淀川を渡り始めます。
 ところが、筏は川の中にたまたま設置してあった杭に引っ掛かって動かなくなりました。筏はボロボロに崩れて行き、乗っていた500人の武士は溺死してしまいました。新田軍が向こう岸から笑い声を上げるのを見て、足利軍は悔しがりますが後の祭りです。

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