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30年日本史00003【旧石器】旧石器時代の提唱者、直良信夫*

 さて、今でこそ我々は日本史の最初の時代区分が「旧石器時代」であることを知っていますが、日本に「旧石器時代」と呼ばれる時代が存在したことが判明したのは戦後まもなくのことでした。というのも、1万年あまり前の日本列島は寒冷で、火山活動が活発。大型動物がうようよしていて、人が住める環境ではないと考えられていたのです。
 そんな中、「1万年以上前の日本にも人が住んでいたはずだ」と主張し、議論を巻き起こしたのが考古学者の直良信夫(なおらのぶお:1902~1985)でした。
 直良信夫(旧姓・村本信夫)は、明治35(1902)年、大分県臼杵町(うすきまち:現在の臼杵市)の貧しい元下級武士の家、村本家の次男として産まれました。子供の頃から勉強好きでしたが、貧困のため中学校に進学することができず、尋常高等小学校を卒業後、伯母が嫁いだ金原家に養子に行き、活版所で働きながら僅かばかりの給料で「早稲田中学講義録」を買い求め、独学で勉強しました。しかし教えてくれる人がいないため、早稲田のことをずっと「はやいなだ」と思っていたそうです。
 大正5(1916)年、信夫が石段に腰掛けて勉強していると、
「いつも感心ですね。しっかり勉強して偉い人になりなさい」
と声をかけてくれた女性がいました。それが臼杵町立実科(じっか)高等女学校の教師、直良音(なおらおと:1891~1965)でした。信夫にとって11歳年上の女性です。まさか後に信夫の妻となるとは、二人とも思いもよらなかったでしょう。この出会いを機に、二人は時々葉書をやり取りする仲となります。
 その後信夫は東京で働き、大正9(1920)年に岩倉鉄道学校を卒業。卒業時の成績が98点で記念の置時計をもらったといいますから、首席かそれに近い成績だったのでしょう。
 卒業後、信夫は国立窒素研究所で働き始めます。仕事の内容は窒素化合物の研究でした。この頃から信夫は考古学に興味を持ち始め、余暇を貝塚発掘に費やすようになりました。ところが、勤め始めて僅か3年後の大正12(1923)年、信夫は結核を患ってしまいます。研究所での仕事で、一酸化炭素を吸入し過ぎたことが原因のようです。
 このとき、信夫には結婚を約束した女性がいたのですが、信夫はやむなく仕事を辞め、彼女を東京に残したまま郷里の臼杵に帰ることとなりました。8月31日、信夫は東京から汽車に乗り込みます。
 翌9月1日。失意のうちに汽車に揺られていた信夫は、汽車が明石駅を出たあたりでふと思い立ちます。あの直良音先生が、いま兵庫県立姫路高等女学校で働いていることを思い出したのです。帰郷する前に、一目だけ音先生に会っていこう。そう考えたことが信夫の人生を変えることとなりました。
 信夫が姫路駅に降り立った頃、東京をマグニチュード8の大地震が襲います。電話もラジオもない時代のこと。信夫は、関東大震災の発生も、それによる婚約者の死も知らぬまま、6年ぶりに会う音先生を訪ねて行ったのでした。

直良信夫・音夫妻の伝記。娘・三樹子さんが書いたもので、当事者だからこそ知る様々な逸話があって面白い。

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