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30年日本史00021【旧石器】東北旧石器文化研究所の設立

 鎌田は石器文化談話会を飛び出し、新たに「NPO法人東北旧石器文化研究所」を設立しました。このときの路線対立について、鎌田は次のように述べています。
「(学者は)報告書を作るまで次の調査はできないと(言っている)。談話会と同じことをやっていたら、上高森や高森遺跡は掘れなかっただろう。勢いが大切な時もある」
 鎌田と藤村は、とにかく発掘にしか興味がないようです。出土品を研究するということには無関心で、一つ掘り当てたら「じゃあ次だ」と言ってまた掘り始めるわけですから、これでは学問とは言えません。以後、東北旧石器文化研究所が主体の発掘では、調査報告書が作られることは一切ありませんでした。
 このように、考古学という学問から離れ、単なる発掘屋となってしまった鎌田たちでしたが、学者たちと完全に決別したわけではありませんでした。東北福祉大学教授、梶原洋(かじわらひろし:1952~)が、鎌田の主張に理解を示し、東北旧石器文化研究所のメンバーに名を連ねたのです。これまで、芹沢長介、藤沼邦彦、岡村道雄の助言を受けて発掘を進めてきた藤村は、これ以降、鎌田俊昭、梶原洋の助言を受けるようになります。
 さて、東北旧石器文化研究所による発掘調査には、一つ不思議なことがありました。発掘が始まる前から、作業終了予定日の翌日に記者発表がセットされるのです。
 普通、記者発表は何か成果があったときにのみ行われます。何も出土しなかった際には、記者を呼ぶ必要がないからです。すると、研究所の面々は、「必ず何か出土する」という確信を持っていたことになります。
 藤村の発掘捏造を、果たして研究所長の鎌田は知っていたのか。二人は共犯者だったのか。真相は分かりませんが、記者発表のスケジューリングについては、鎌田を疑う根拠の一つになり得るでしょう。
 さて、平成5(1993)年11月、東北旧石器文化研究所が主体となって、上高森遺跡(かみたかもりいせき:宮城県栗原市)の発掘が開始されました。高森遺跡の業績を教育委員会に横取りされた形となり、さらに発掘方針をめぐっても対立が起こったため、研究所としては「じゃあこっちはこっちで新しい遺跡を発掘するからもういいよ」という気持ちだったのでしょう。そこで、高森遺跡からほんの500メートル離れた場所の発掘を始め、そこを「上高森遺跡」と名づけたというわけです。まるで嫌がらせのようです。
 その上高森遺跡からは、高森遺跡を上回る新たな成果が次々と上がることになります。
 平成6(1994)年10月。高森遺跡では、「日本最古・高森遺跡の年代をさぐる」と題したシンポジウムが開催されました。その同じ日。東北旧石器文化研究所は、当て付けのように「上高森遺跡は70万年前のもの」と記者発表を行いました。「こちらの方が古いぞ。高森遺跡は日本最古じゃないぞ」というわけですね。
 70万年前の地層から石器を出土させること。研究所の面々は、それを目標に上高森遺跡を掘り続けたのです。

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