見出し画像

30年日本史00911【南北朝最初期】足羽城の戦い

 越前国府の戦いに勝利した新田義貞は、このまま京に攻め上ろうとも考えましたが、斯波高経が依然として越前国内の小黒丸城(おくろまるじょう:福井県福井市)に立て籠もっており、これを陥落させずに越前を出国するのは危険な状況でした。
 延元2/建武4(1337)年5月2日には義貞自ら6千騎を率いて、足利方の足羽城(あすわじょう)を攻め始めた……と「太平記」は記しているのですが、この足羽城というのが越前国内のどこにあったのか、定かではありません。小黒丸城を含めた7つの城の総称ではないかといわれています。
 「太平記」はこの義貞の足羽城攻めを非常に細かく記しています。
 第一に義貞の家臣の一条行実(いちじょうゆきざね)が500騎で攻め寄せましたが、上手くいかずに本陣に引き返して来ました。
 第二に船田政経が700騎で攻め寄せ、兵たちが川を半分ほど渡るところまでいきましたが、足利方の細川出羽守が200騎でこれを迎え討ちました。船田軍は次々と討たれて撤退します。
 第三に細谷秀国(ほそやひでくに)が千騎で攻め寄せ、堀を越えて塀に取りつくところまでいきましたが、城中の敵にやられて撤退しました。
 以上のとおり、三度に渡って新田軍は同じような失敗を繰り返すのです。足羽城の戦いは足利勢に有利な形で展開していきました。
 ところが7月3日には越後国から、大井田氏経をはじめとする新田方の味方が2万騎も馳せ参じてきました。大井田氏経といえば、福山合戦で活躍した名将でしたね(00865回参照)。大井田が合流すれば、新田軍は圧倒的に有利になるはずです。
 大井田の軍を通すまいとして、足利方にして越中守護である井上俊清が国境で迎え討ちますが、圧倒的な兵力差のため井上軍は歯が立ちません。
 井上軍は松倉城(富山県魚津市)に立て籠もりますが、大井田軍はこれを深追いせず無視して、そのまま越前へと向かっていってしまいます。
 次に大井田軍の前に立ちはだかったのが、足利方にして加賀守護である富樫高家(とがしたかいえ)でした。しかし富樫軍は僅か500騎であったため、次々と討たれて那谷城(なたじょう:石川県小松市)へと逃亡しました。大井田軍はこれも深追いせず通り過ぎ、越前へと向かいます。
 この大井田軍が合流したことで、義貞軍は一挙に強大になりました。これなら足利方の足羽城を落とせそうです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?