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30年日本史00403【平安後期】清盛 白河落胤説

 「清盛は忠盛の長男ではなく、実は白河法皇の落胤だった」という説は、当時から囁かれていた噂のようです。では、白河法皇が誰に産ませた子なのかというと、複数の説があります。
 「平家物語」には様々なバージョンがあるのですが、「語り本」と呼ばれる類型によると、白河法皇が晩年に愛した祇園女御が懐妊したのを、忠盛に下賜されたとされています。つまり、忠盛は妊娠中の祇園女御を側室として娶り、産まれた子を嫡男にさせられたというわけで、事実だとしたらあまりにひどい話です。
 一方、「平家物語」の「読み本」と呼ばれる類型によると、白河法皇は祇園女御に仕えた女房に手を付け、妊娠させたといいます。その女房を忠盛に下賜したというわけで、ほぼ同じ流れですね。
 さて、胡宮神社(滋賀県多賀町)に伝わる「近江国胡宮神社文書」には、さらに複雑な話が描かれています。
 祇園女御には娘が一人いましたが、世間体を憚って、祇園女御はそれを「年の離れた妹」ということにしていました。ところが白河法皇がその娘に手を出してしまい、祇園女御は激怒します。
 白河法皇は祇園女御の怒りを鎮めるため、その娘を手放さざるを得ませんでした。そこでやむなく、平忠盛に下賜したというのです。
 清盛にこのような逸話が産まれた理由は、12歳で従五位下に叙されるなど、破格の待遇を受けたためでしょう。確かに、平家の嫡流の中であることを考慮しても、清盛の扱いはまさに破格であり、
「祇園女御の後押しがあったためではないか」
「それは祇園女御の身内だったからではないか」
と人々の想像が膨らんでいき、様々な噂が生まれたのでしょう。
 しかも、白河法皇の女好きは相当なものでした。あるとき、源惟清(みなもとのこれきよ)の妻が美しいというのを知って、惟清の一族に「白河法皇を呪詛した」との因縁をつけて、伊豆国に配流してしまいました。そうして得た惟清の妻というのが祇園女御なのです。
 このようなエピソードを持ち、多数の女性と関係を持った白河法皇ならば、清盛の父親であってもおかしくない、と思われたのでしょう。
 清盛=白河落胤説は、史実かどうかは怪しいものですが、多数のフィクション作品で援用され、大河ドラマ「平清盛」でも取り上げられました。

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