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30年日本史01014【南北朝前期】光明寺合戦 赤松則祐の離脱

「ChatGPTの登場で、ライターの仕事はなくなるのかな」という話も聞きますが、少なくとも現時点では人間のライターの文章の方がはるかに読む価値があると思います。しかし10年後になるとどうなるやら・・・。

 尊氏軍が書写山に集結しつつある頃、八幡にいた直義軍の中から、石塔頼房を大将とした軍が繰り出されました。彼らが布陣した場所は、太平記では「光明寺」(兵庫県加東市)と呼ばれていますが、歴史学者は「滝野城」と呼んでいます。当時の寺院は城さながらの防御力を有していたのでしょう。
 敵方が近づいてきたことを知った尊氏は、正平6/観応2/貞和7(1351)年2月3日、書写山を発って1万騎で光明寺を取り囲みました。
 翌2月4日から籠城戦が始まりました。籠城する石塔頼房軍に対して取り囲む尊氏軍は大軍で、数の差は明らかです。しかし尊氏軍の兵たちは、ただ味方が大勢であることを頼りにして、士気も高くなく、石塔軍が連日有利に戦を進めていきました。
 尊氏軍に加わっていた赤松則祐にとっては、父・円心を正平5/観応元(1350)年1月11日に亡くして以降、これが初めての戦となります。則祐は
「敵は小勢だぞ。早く攻めよ」
と指示しますが、兵たちは寺に走り寄って取り囲むばかりで、誰も本気で戦おうとしません。何もしなくてもすぐに陥落するであろう城を、なぜ自分が骨を折って攻めなければならないのかと考えていたのです。
 こうして、数万もの尊氏軍はただ見合って譲り合うばかりで、何もせずただ時間が過ぎていきました。
 一方、城中の石塔軍はここまで善戦しているとはいえ、敵の尊氏軍があまりの大軍であり、兵たちは落ち着きを失くしていました。そこに、城中にいた童が突然飛び上がり、神がかりになって
「私は伊勢大明神だ。この城を守るため、三本杉の上に座っている。敵がどんな大軍であれ、私がここにいるうちは、城が陥落することはない。師直・師泰らはその悪行ゆえに、あと七日のうちに身を滅ぼすであろう。ああ、何と熱いことだ。早く炎を冷まさねば」
と言うが早いか、たちまち井戸の中へ跳び込んでしまいました。すると井戸の水が沸き返り、これを見た城中の兵たちは「伊勢大明神が味方だ」と言って大いに士気を上げました。
 城中の様子を伝え聞いた赤松則祐は、
「さてはこの戦は思わしくないぞ」
と思いました。さらに甥の朝範(とものり)が
「尊氏軍1万騎が同時に城に火をかけたところ、八幡山と金峯山の方角から山鳩が数千羽飛んで来て、翼を水に浸して、火を消すという夢を見ました」
と言ってきたので、
「ああ、この城は落ちない。事が面倒にならないうちに引き上げよう」
と言って、光明寺の陣を捨てて白旗城へと帰ってしまいました。

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