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30年日本史00907【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 恒良の機転

 金ヶ崎城は落城しました。
 城中にいた兵は160人余りで、その中で降伏して助かった者が12人、岩の中に隠れて生き延びた者が4人でした。その他の151人は皆自害して果てました。「太平記」は、その後金ヶ崎では彼らの怨霊が留まって、雨の降る夜は食を求めて喚く声が響くようになったと述べています。
 夜が明けると、蕪木の港から
「恒良親王はここにいらっしゃるぞ」
との知らせがあったため、足利勢は迎えをやらせ、恒良親王をあっけなく捕虜としました。どうやら蕪木の漁師は依頼通りに動いてくれなかったようですね。気比斉晴はちゃんと自らの手で親王を送り届けるべきでした。
 さて、足利勢は金ヶ崎城の首実検を始めますが、新田義顕の首はあるのに、新田義貞・脇屋義助の首がありません。あちこち探してみますが一向に見つからないので、斯波高経が恒良親王に対し
「義貞と義助の死骸が見つかりません。どこへ行ったのかご存じですか」
と尋ねたところ、恒良親王は二人が杣山城にいると知られてはまずいと考え、
「義貞と義助の二人は昨日の夕方には自害していたのだ。家来たちが火葬にしようと話しているのを聞いた」
と述べ、一同は
「なるほど。それでは死骸のないのも道理だ」
と納得しました。杣山城がしばらく攻撃されずに放置されたのは、恒良親王のこの機転のおかげだったのですね。恒良親王は当時11歳だったはずですが、なんと英明な少年だったことでしょう。
 新田義顕の首は京へ送られ、引き回しの上獄門に掛けられました。新たに天皇が即位してから3年間は獄門を行わないという決まりがあり、こうしたルールからの逸脱は不吉な出来事を招くといわれているため、獄門にかけることには反対意見もあったようですが、足利勢としては敵の大将の嫡男を見事倒したわけですから、人々にアピールしたいという気持ちが先行したのでしょう。巷の人々は眉をひそめてこの首を見たことと思われます。
 一方、恒良親王は京へ護送され、牢に幽閉されることとなりました。後醍醐天皇から譲位を受け、天皇に即位したはずの恒良親王は、敵方からも父からも即位を否定され、そのまま失意の晩年を送ることとなります。

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