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30年日本史00866【建武期】和田範長の自害

 足利軍が陸路でなく海路で兵庫に向かうと聞き、新田軍は備前三石城も船坂峠も放棄して兵庫へと駆けていきます。
 一方、熊山(岡山県赤磐市)を占拠していた和田範長・児島高徳父子(父子ですが苗字が異なります)は、備中福山城が足利軍の手によって陥落したとの知らせを受け、新田軍本隊と合流するため、83騎で三石城へと向かいました。そこで「本隊は既に兵庫に向けて出発した」と聞き、急ぎこれを追いました。
 このとき、児島高徳はまだ先日の傷が癒えておらず、移動に予想以上の時間がかかったため、範長は高徳を坂越(さこし:兵庫県赤穂市)の妙見寺に預けることとしました。
 さらに兵を進める範長の行く手に、赤松勢300騎が立ちふさがりました。赤松円心は敵が兵庫に集結していると聞いて、家臣らを山陽道に配置していたのです。
「命が惜しければ甲冑を脱いで降伏せよ」
と迫る赤松勢に対し、和田範長は高笑いしながら
「もし降伏する気があるならもっと早くしておるわ。甲冑が欲しければ一戦せよ」
と言い放ち、そのまま敵の只中へと攻め込んでいきました。そのあまりの勢いに赤松勢は気圧され、範長たちは敵の陣中を通ってそのまま駆け抜けていきました。
 敵を逃した赤松勢が周辺の野武士たちに
「落人が通るぞ。討ち取れ」
と呼びかけたため、和田範長の行く手には次々と敵が出現しました。83騎いたはずの範長軍は次々に討たれてしまい、いつの間にか6騎まで減っていました。
 延元元/建武3(1336)年4月22日。範長ら6騎が阿弥陀ヶ宿(兵庫県赤穂市)の辻堂で馬を休めていると、赤松勢の宇野重氏(うのしげうじ)らの軍に取り囲まれてしまいます。
 覚悟を決めた和田範長は、
「遂に討たれるときが来たか。最後の念仏を心静かに唱えて腹を切ろう。せめてその間だけ、敵を防いでくれ」
と郎党たちに伝え、辻堂の中に走りこんで念仏を唱えた後、腹を一文字に切り裂いて自害を遂げました。
 和田勢6人のうち5人までは同様に自害を遂げましたが、範長の従兄弟に当たる和田範家(わだのりいえ)は、
「せめて追っ手を一人でも討ってから死ぬのが忠義というものだ」
と考え、刀を握って自害したふりをして倒れていました。そこに近づいた宇野重氏が
「おお、我が親類の和田一族ではないか。敵方とはいえ命は助けたかった」
と呟くと、範家が飛び起きました。重氏は驚きながら範家を助けるとともに、死んだ5名を大日寺(兵庫県高砂市)で懇ろに弔ったといいます。
 現在兵庫県赤穂市には、和田一族の5人を弔う五輪塔が置かれています。

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