30年日本史00380【平安後期】後三年の役 戦後処理
金沢柵の戦いで、源義家と清原清衡は家衡を徐々に追い詰めていったものの、家衡はなかなか降伏しません。
義家は、最終的には兵糧攻めによって金沢柵を陥落させることとなります。
城兵たちが飢えにあえぐ中、寛治元(1087)年11月14日、遂に家衡は捕らえられ、斬首となりました。
このとき、家衡の郎党の千任丸(せんにんまる)という男が舌を切られ、髪の毛で吊るされたのですが、足元の家衡の首を踏むまいとして足を曲げ続けたというエピソードが残っています。家衡は郎党からは慕われた首領だったのかもしれませんね。
こうして、後三年の役と呼ばれた清原家の内紛は終わりを告げました。源義家は朝廷からの恩賞を期待していましたが、朝廷はこれらの戦いを全て私闘とみなし、一切恩賞を与えることはありませんでした。義家はやむなく、私財を投げ打って今回の戦闘に参加した東国武士たちへの論功行賞を行いました。東国武士らはいたく感激し、義家の人気がひどく高まったといいます。
さて、清原清衡は、家衡が領有していた3群をも手中に収め、東北の覇者となりました。
その後、関白・藤原師実に貢ぎ物を収めるなど中央政権との関わりも重視し、やがて陸奥の押領使に取り立てられました。
いつの頃かは分かっていませんが、清衡はその後、平泉(岩手県平泉町)に居を移します。あわせて、父方の姓である「藤原」を名乗るようになりました。奥州藤原氏の初代・藤原清衡の誕生です。清衡にとっては、清原は父を滅ぼした者の姓であり、名乗る気になれなかったのでしょう。
これ以降、奥州藤原氏は中央政権から適度な距離を置きつつ、玉山金山(岩手県陸前高田市)から豊富に産出される金のおかげで大いに繁栄します。
初代: 清衡
2代: 基衡(もとひら:1105?~1157)
3代: 秀衡(ひでひら:1122?~1187)
4代: 泰衡(やすひら:1155?~1189)
平泉には、初代清衡が建てた中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)、2代基衡が建てた毛越寺(もうつうじ)、3代秀衡が建てた無量光院(むりょうこういん)などのきらびやかな建築が建ち並び、現在、世界遺産に登録されています。
4代泰衡のときに、源義経をめぐる政争に巻き込まれ、滅びることとなるのですが、奥州藤原氏の栄華は後三年の役に始まったというわけです。
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