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30年日本史00989【南北朝前期】直冬、西国へ下向

いちいち元号を二つ併記するのは面倒ですが、「北朝関係の話をするときは北朝元号、南朝関係の話をするときは南朝元号」と使い分けようとするとさらに面倒です。

 正平3/貞和4(1348)年3月14日。東洞院にあった尊氏邸がたまたま火災に遭いました。住む場所を失った尊氏は、当面の間、今出川の高師直邸に滞在することとなりました。取るに足らないエピソードではありますが、ここで三条坊門の直義邸ではなく今出川の師直邸を選んだということは、後に直義・師直の対立に際して尊氏が師直の味方をする伏線といえます。
 5月28日には紀伊国で南朝の反乱が起こり、幕府はこれを鎮圧するため、足利直冬(あしかがただふゆ:1327?~1387?)を派遣することとしました。
 ここで九州の南北朝時代を語る上でのもう一人の重要人物・足利直冬が初登場しました。
 そもそもこの時点で尊氏には3人の男子がいました。
・次男・直冬(ただふゆ:1327~1387)
・三男・義詮(よしあきら:1330~1367)=幼名・千寿王
・四男・基氏(もとうじ:1340~1367)
 長男の竹若丸は既に死去しています。次男の直冬は庶子であり、母親は「越前局」と呼ばれていますが、具体的にどんな人物なのか伝わっていません。尊氏がたまたま一夜通った相手だそうなので、側室として認められた女性ですらないようです。
 一方、義詮と基氏は正妻たる赤橋登子が産んだ子なので、嫡男は義詮となります。
 直冬はその存在自体が周囲に知られていませんでしたが、あるとき、直冬を育てていた玄慧(げんけい)という僧が直義にこのことを話し、直義の取りなしで初めて父子の対面が許されることとなりました。
 ところが、なぜかは分かりませんが尊氏は執拗なまでに直冬を嫌い、近づけないようにしたのです。そこで、子に恵まれなかった直義は尊氏と交渉し、直冬を養子として引き取りました。「直冬」という名も直義が名付けたものです。
 直冬は颯爽と出陣し、8月8日から9日にかけて紀伊国の南朝軍と戦い、多くの犠牲を出しながらも見事これを平定しました。9月28日に直冬は凱旋帰国しましたが、尊氏はこれを一切喜ばず、戦功を賞する言葉は一切発さなかったといいます。
 その後、詳細な時期は不明ですが、遅くとも正平4/貞和5(1349)年4月までには直冬は西国平定のため長門探題(中国探題ともいう)に任命され、京を出発しました。西国平定を任された理由は、
・尊氏に嫌われて遠ざけられたため
・「政争に巻き込まれないように」との直義の親心のため
などの説があり、よく分かっていません。
 この直冬は、この後尊氏・直義兄弟の対立が始まると重要人物として浮上してくるので、ぜひ記憶にとどめていただければと思います。

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