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30年日本史00853【建武期】第一次京都合戦 糺河原の戦い

 建武3(1336)年1月29日、足利軍は京に戻って来ました。このとき楠木正成は一計を案じました。僧を数十名、京の戦場に派遣して、死骸を探す演技をさせたのです。
 足利軍の兵が僧たちに
「誰の死骸を探しているのですか」
と尋ねると、僧たちは涙をこらえる演技をしながら
「昨日の合戦で、新田殿も北畠殿も楠木殿も、みな死んでしまいましたので、供養のためご遺体を探しているのです」
と答えます。それを聞いた尊氏は
「主な敵将はみんな戦死したということか。それでは我が軍の勝利だったということではないか」
と不思議がり、兵たちに首を探させました。兵たちはたまたま新田義貞・楠木正成と顔の似ている首を見つけ、
「これだこれだ」
と喜んで獄門の木にさらし首としましたが、京の人々は
「あの首は本物かなあ」
と疑いの目で見ていたといいます。
 このように、楠木正成は自らを死んだと見せかける術をたびたび使ったため、その後本当に戦死した後も生存説があちこちで囁かれることになるのです。
 さらに楠木正成はその日の夜、兵たちに松明を大量に持たせて鞍馬山(京都市左京区)へと向かわせました。これを見た足利軍は
「どうやら敵が逃げていくぞ」
と勘違いして、これを追撃に行きます。
 ところが、これは正成の計略でした。足利軍は糺河原(ただすがわら:京都市左京区)に追撃したつもりが、あらかじめ潜んでいた伏兵に次々とやられていき、馬や鎧を捨てて全速で逃げ帰っていきました。
 足利軍は京を捨てて西へ西へと逃げていきます。久我畷や桂川のあたりには、敵に追いつかれそうになって覚悟の自決を遂げた足利軍の兵たちの死体や、兵が捨て置いた馬や鎧で足の踏み場もなかったといいます。
 尊氏自身も命からがら丹波篠村(京都府亀岡市)を通って逃げていきました。その後、湊川(兵庫県神戸市)で他の兵たちと合流し、海を渡って九州へと落ち延びることとなります。

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