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どうする家康 第28回「本能寺の変」

遂に前半の山場、「本能人の変」が放映されましたね。
家康の生涯を描く上で本能寺の変は本来まだまだ序盤戦のはずなので、これが7月に放映されるというのは非常に遅く感じるのですが、青年家康のなよなよした感じを十分に描いておかないとこの作品のコンセプトに上手くハマらないのでしょう。

信長の幼少期

この作品、家康とその家族や家臣団に焦点を当てるため、それ以外の登場人物の内面に迫った演出はあまりなされないのですが、前回と今回で初めて信長の人物像が深堀りされましたね。

信長は幼少期から
「自分以外誰も信じるな」
という極端な英才教育を受けてきたというのです。
そして順調に天下統一に向かっているかに見えた信長は、実際には追い詰められており、信頼できる友に討たれることを望んでいたのでした。

ほんまかいな。

でも、信長ともあろう者があんな少人数で京に宿泊するといういかにも不自然な史実を、上手く説明することができますね。

明智光秀の決意

信長とその長男・信忠が僅かな手勢で京にいることを知った光秀が、雨空を見上げながら呟きます。

「時は今 天(あめ)が下しる 五月かな」

これまでほとんどの大河ドラマで、光秀がこの句を詠む場面が描かれてきました。初めて聞く人は何が何だか分からないですよね。

これは本能寺の変の直前、5月28日、愛宕神社で行われた連歌の会に光秀が参加して詠んだものなのです。ちゃんと記録が残っており、史実として間違いありません。

なんと、この歌に光秀の謀反の計画が表れているというのです。

「時は今 天(あめ)が下しる 五月かな」
を普通に読めば、単に
「今は天から雨が滴ってくる五月ですねえ」
という季節と天候を歌ったものなのですが・・・。

ちょっと工夫して読むと、
「天が下しる」
とは
「天下をしる」
と読めます。

「識(し)る」とは古語で「支配する」という意味になります。
古事記でイザナギが娘のアマテラスに
「そなたは高天原を識らせ」
と命じる場面がありますが、つまり
「天下をしる」=「天下を治める」
という意味なのです。

さらに、「時は今」とありますが、明智氏は美濃の守護大名「土岐氏(ときし)」の出身です。

「土岐氏出身の私が、今こそ天下を治めようぞ」
という裏の意味が隠された歌だというわけです。

まあ、さすがに後付けでしょうがね。
謀反を起こす直前に、ヒントを周囲に与えるなんて馬鹿なことはしないでしょう。

家康、堺へ行く

信長が京に到着したのとほぼ同時刻、家康は大坂の堺へと向かいました。
津田宗及や松井友閑といった堺の有力者と面会する場面がありましたね。

この作品では、
「ただ信長を討っても天下は取れない。堺の有力者を取り込まなければならないため、堺に行った」
というストーリーになってますね。ずいぶん気の長い計画だなあという印象ですが笑。

ここでお市との再会がありました。
お市は夫(浅井長政)との死別後、岐阜に住んでいたはずで、堺で家康と遭遇したというのはもちろんフィクションです。
しかし、ここで信長の真の思いを家康に語り、視聴者をほろりとした気分にさせるのはお市にしかできない役割ですね。

「いずれ誰かに討たれるのなら、あなた様に討たれたい。兄はそう思っているのでは・・・」

・・・家康の計画を知ってて言ってるのか???

そして本能寺炎上

そしていよいよ信長が襲撃されます。
忍者のような恰好の者に背中を刺され、致命傷を負った状態での殺陣、見応えがありましたねえ。
あの忍者、明智勢なのでしょうか?
それとも何か別の勢力???
まあ、次回以降分かるかもですね。

家康、計画を取りやめ

「あらら。辞めちゃうのか・・・」
と思いながら見てました。家康が非情になれるのはまだ先なんですね。

そこに茶屋四郎次郎が衝撃の知らせを持ち込んできました。
史実でも、家康に本能寺の変を知らせたのは茶屋四郎次郎です。

ひたすら家康を思いながら死んでいく信長

もう信長と家康のラブストーリーかと思うほど、両者は互いの名を呼びながら戦っていましたねえ。
ちなみに大河ドラマ「利家とまつ」では、信長は利家の名を呼びながら死にますし、大河ドラマ「江」では、信長は江の名を呼びながら死にます笑。
大河ドラマってそういうものですよ。
ストーリーとして納得がいけばそれで良いのです。

秀吉が事件を知る

本能寺で信長が死んだ頃、秀吉は毛利氏家臣・清水宗治が守る備中高松城(岡山市)を攻撃していました。
備中高松城はなかなか堅固な城でしたが、秀吉はこの城の周囲の地形に着目し、
「城を取り囲む堤防を築いた後、川の一部を決壊させれば、城は水浸しになる」
と気づきます。そこで世界的にも珍しい「水攻め」を行ったのです。

確かに備中高松城を取り巻く地形は、水攻めにぴったりでした。
水の行き場がなくなって水没する様子は、昭和60年の大雨の際にも見ることができます。

岡山市製作のパンフレットより。下が平時で上が洪水時。

水攻めによって城は湖の中に孤立し、兵たちは飢えに苦しみ始めました。
ちょうどそこに、明智光秀が毛利氏に向けて放った密使が、秀吉軍に捕らえられます。

密使が持っていた手紙の内容に、秀吉は打ち震えました。
信長は既に殺されたというのです。
このとき、秀吉側近の黒田官兵衛が
「早く光秀を討ってしまいなさい。そうすればあなたが天下人だ」
と言ったとか言わないとか。

秀吉は
「これが毛利に知られる前に早く和議を結び、京に帰ろう」
と決め、清水宗治と和睦を締結します。
清水宗治は、
「自らが切腹すれば兵たちは助命される」
との和睦条件を聞いてすぐさま承知し、
「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」
と辞世を詠み、割腹して果てました。

ここから秀吉の猛スピードの行軍、いわゆる「中国大返し」が始まるわけですが、ここからは次回の解説でお話ししましょう。

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