30年日本史01036【南北朝前期】薩埵山の戦い 那和庄の前哨戦
鎌倉にいた直義を追討すべく、尊氏軍は東へ向かいます。尊氏らが駿河(静岡県)に着いた頃、直義方には多数の兵が集まっているのに、尊氏方にはなかなか集まりません。尊氏に付き従う兵は、仁木頼章・義長の兄弟、畠山国清ら3千騎にも満たない少数でした。
「このままでは鎌倉を攻めても勝てない」
と考えた尊氏らは、正平6(1351)年11月下旬、薩埵山(さったやま:静岡市清水区)に陣を布きました。ちなみに(短期間ではあるものの)南北朝が統一されているので、ここからしばらくは南朝方の元号「正平」を用います。
尊氏が薩埵山にいるとの知らせを受けた直義は、上杉憲顕の20万騎を正面隊として、石塔義房・頼房父子の10万騎を搦手隊として、それぞれ派遣しました。直義自身は50万騎もいるのに例によって伊豆国府(静岡県三島市)でお留守番です。なかなかに消極的です。
なお、直義党の猛将・桃井直常はというと、1万騎で上野国(群馬県)に向かっていました。下野国(栃木県)を拠点とする宇都宮氏綱が尊氏党の救援に向かっているとの連絡を受けたためです。
宇都宮氏綱といえば、北畠顕家が関東を席巻していたときに、芳賀高名とともに宇都宮城に籠もって北朝方として戦った人物です(00918回参照)。尊氏に心から私淑していたものと考えられます。
薩埵山は三方が険しく谷が深く切れ込んでいて、もう一方は海という場所です。鎌倉に近い地形ですね。攻めづらく、守りやすい地形ではありますが、さすがに攻め手の直義党は50万騎、守る側の尊氏党は3千騎ですから、話になりません。ただ、太平記の記述ですので兵の数については本気にしないでください。
いよいよ薩埵山の戦いが始まるのですが、まずは宇都宮氏綱の動向から話を起こしていきましょう。
宇都宮氏綱は尊氏を支援するため、12月15日に宇都宮を出て薩埵山に向かったのですが、途中、笠懸ノ原(群馬県みどり市)で「味方の軍勢が敵と小競り合いを起こして負けた」との知らせが入ったり、家臣の三戸師親(みともろちか)が突然狂気をきたして自害してしまったり、不吉なことが次々と起こりました。これにより、一度は2千騎にまで膨れ上がっていた軍勢は次々と逃げ出して、700騎にまで減ったといいます。
それでも気を取り直して行軍を続け、12月19日正午に利根川を渡って那和庄(群馬県伊勢崎市)に着いた頃、後方から敵が迫っていました。直義党の猛将・桃井直常ら1万騎です。
前哨戦・那和庄の戦いの始まりです。
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