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30年日本史00914【南北朝最初期】男山の戦い 高木と松山

 ここで「太平記」は、男山の戦いのちょっとしたエピソードを紹介しています。
 高師直が男山に攻めかかっていたとき、男山の城中に高木十郎(たかぎじゅうろう)、松山九郎(まつやまくろう)という兵がいました。高木は戦意は高いが力がなく、松山は力は強いが臆病でした。
 この二人は同じ城門を守っていましたが、敵が城門をまさに破ろうとしたとき、松山の手足はひどく震え始め、戦うこともできませんでした。これを見た高木は怒って腰の刀に手を掛けながら
「敵に囲まれて絶体絶命の中で戦っているところではないか。この城門を破られたら誰も助かるまい。今こそ勝負の分かれ目なのに、お前はなぜそんなにも臆病なのか。お前がここで精一杯の合戦をしないというのなら、私は敵の手にかかるよりもお前と刺し違えて死んだ方がいい」
と怒鳴りました。
 高木のあまりの怒りに触れた松山は、
「分かった。私は命を惜しむつもりはない。敵と戦って見せよう」
と言うやいなや、震えながら敵の前に走り出て、そこにあった大きな石を軽々と持って投げつけました。敵の数万の兵達が、この大石に当たって将棋倒しのように一挙に谷底へ転がり落ちていきます。この凸凹コンビの活躍を見た男山勢の兵たちは
「松山の力は高木のものだったのか」
などと大笑いしました。
 そうこうしているうちに、脇屋義助の軍勢は敦賀まで進軍して来ました。そこで
「男山が炎上したらしい」
との情報が入り、既に攻め落とされたのだろうと考えた義助は、新たな情報を得るために数日間敦賀に留まり、無駄に日数を失ってしまいます。
 男山の新田義興・北畠顕信軍は、もはや脇屋義助の援軍が来るまで持ちこたえることはできないと考え、ひそかに男山を下山して河内国へ戻っていきました。
 もし、男山があと数日持ちこたえ、さらに脇屋義助軍がもう少し早く助けに来ていたら、足利勢は非常にまずい状況に置かれていたことでしょう。越前の新田軍と男山の北畠軍とが上手く連携できなかったことは、南朝方にとっては非常に不運な出来事でした。
 義助はむなしく越前に帰ることとなり、義貞・義助兄弟はともに足羽城攻めを再開することとなりました。南朝方にとって、実に無駄に過ごした数週間でした。

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