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30年日本史00008【旧石器】世紀の大発見*

 昭和22(1947)年秋、カスリーン台風が日本列島を縦断し、死者1077名、行方不明者853名という甚大な被害をもたらしました。(当時はアメリカを始めとする連合軍が日本を占領していたため、台風には英名がつけられていました。)相澤の住む桐生市でも、この台風によって桐生川、渡良瀬(わたらせ)川が氾濫し、百名を超える死者が出ました。この台風こそが、世紀の大発見のきっかけとなるのです。
 台風が過ぎて一週間が経ったある日、相澤は行商のため群馬県笠懸村(かさがけむら:現・みどり市)岩宿を自転車で走っていました。そこで、台風によって崩れ、赤土(あかつち)が露出した崖を見つけます。
 赤土とは、関東ローム層と呼ばれる地層の土で、1万年以上前に火山の噴火によって降り積もったものです。つまり、人類がいなかった時代の土のはずです。
 当時、考古学者の間では、
「掘り進めていって赤土が出たらそこで発掘は終了だ」
と言われていました。赤土の層からは何も出て来ないからです。
 しかし相澤は、赤土の断面に突き刺さった石のかけらを見つけました。そのかけらは、人工的に作られた石器のかけらのように見えました。
「赤土の中から石剥片(せきはくへん)が出る……そんなバカな?」
 相澤は考え込みました。出てきた石剥片は10片ほどで、いずれも2cm程度のものでした。これらを持ち帰った相澤は、いろんな文献を読み漁って調べてみたものの、答えは見つかりませんでした。
 その後、相澤は幾度も岩宿の赤土の崖を訪れます。そのたびに新たな石剥片が出土するのです。相澤は、
「もしや、1万年以上前に、ここに人が住んでいたのではないか」
と疑い始めました。もしそうだとしたら、考古学の常識を覆す大発見です。
 そして昭和24(1949)年6月、遂に相澤は疑いのない証拠を手に入れます。岩宿の崖に沿って歩いていると、そこに突き刺さる槍のように尖った石器を発見したのです。長さ6.9cm。もはや疑いようのない、黒曜石を人工的に削ってできた石器です。
 相澤は、自伝「岩宿の発見」(講談社文庫)の中でこのときの興奮を次のように表しています。
「ついに見つけた! 定形石器、それも槍先端をした石器を、この赤土の中に……。私は、その石を手にしておどりあがった。(中略)もう間違いない。赤城山麓の赤土のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりももっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ」

相澤が発見した石器を拡大したモニュメント。相澤忠洋記念館の入口にある。

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