どうする家康 第40回「天下人家康」
たった一話で、石田三成と徳川家康の良好だった仲が一挙に険悪になってしまいましたね。
この両者の対立は、関ヶ原の原因であるという以上に、現代を生きる我々にも極めて重要な教訓を残している気がします。ここを丁寧に描いていかないと、この先が見えなくなってしまいます。
石田三成といえば「三献の茶」
「家康ツアーズ」で紹介されていましたが、そもそも石田三成は近江(滋賀県)の寺で働く名もなき小僧でした。
たまたま近くで狩りをしていた秀吉がこの寺に寄り、茶を所望しました。
すると小僧が
・一杯目はぬるめの茶
・二杯目はそこそこの温度の茶
・三敗目は熱々の茶
という順に運んできました。秀吉はこの小僧の機転に驚き、雇い入れました。これが後の石田三成だったというわけです。
家康ツアーズでは「近年の三成人気」という言葉が出てきて、Twitterで話題になっていましたね。
「三成を大河の主人公に!」
という声もあるようですが、果たして1年持たせられるほどコンテンツがあるかどうか。
五大老五奉行が全員登場
晩年の秀吉を支えた「五大老五奉行」が勢ぞろいしていましたね。
「鎌倉殿の13人」ならぬ「太閤殿の10人」といったところでしょうか。
五奉行というのが、秀吉政権で実務を握っていた人たちです。石高はそんなに高くはないですが、秀吉の指示を直接受けて実行する重要な役どころでした。
・徳善院玄以(前田玄以)
・浅野長政
・石田三成
・長束正家
・増田長盛
の5名です。
一方、五大老というのが、秀吉政権で特に石高の高かった大名たちです。
前田利家:83万石
毛利輝元:112万石
上杉景勝:120万石
宇喜多秀家:57万石
徳川家康:250万石
ちゃんと石高が示されていて、ドラゴンボールの戦闘力を思わせる表現でしたね。
前回説明したとおり、私の理解では
○社長に対抗し得る副社長や専務や常務といった役員たちが五大老
○まだまだ役員にはなれないが、社長が信頼している秘書室の面々が五奉行
といった感じです。つまり、関ヶ原の戦いとは、圧倒的な力を持った副社長(徳川家康)と、格は低いが社長に最も信頼されていた秘書室長(石田三成)の戦いでした。
今回のドラマ上では、家康と三成は特段対立していなかったのに、毛利輝元、上杉景勝、茶々といった周囲の者たちが三成に
「家康を警戒せよ」
と焚きつけてしまい、対立を煽った・・・という展開になっていましたね。
武断派を敵に回す石田三成
三成は朝鮮出兵から帰国した「武断派」と呼ばれる武将たち(加藤清正・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎・福島正則)にを敵に回してしまいます。
ドラマ上では
「戦のしくじりの責めは不問にいたしますゆえ」
などと放言してしまったことが対立の原因でしたね。しかし、このセリフはドラマ上の創作です。
実際には、三成が秀吉に「加藤清正の戦が下手で失敗ばかりしている」と伝えたことが原因のようです。秀吉は激怒して清正を一旦帰国させ、謹慎させたわけですから、清正としては立つ瀬がないでしょう。
当然、朝鮮で清正と一緒に戦ってきた黒田・蜂須賀・藤堂・福島らが加藤清正方の味方をしたのは、自然の流れだったでしょうね。
この加藤清正と石田三成の対立というのは、今の社会でもたびたび見られることではないでしょうか。
本社からキャリア採用の若手が突然営業所長として送り込まれてきて、
「この営業所はずいぶん成績が悪いようですから、強化します」
などと言ってくるわけです。その上、現場の苦労も知らずに
「現場の営業たちのスキルが低い」
などと本社に報告してしまうわけですから、当然、エリア採用の叩き上げの営業職たちにとっては気分が悪い話です。
徳川家康、加藤・福島・黒田と婚姻
三成が敵を増やしてしまったところで、家康が動き始めます。
本来、秀吉政権下では大名同士の婚姻は豊臣家の許可が必要だったはずなのですが、家康は許可を申請しないまま、加藤・福島・黒田と次々と婚姻を結んでしまいました。
いずれも、三成と対立している大名ですから、これはもう明確に「私はアンチ石田方につくよ」と公言しているようなものでした。
ドラマ上では、家康は
「加藤らを懐柔してやることで、三成のダメな部分を補ってやろう」
というくらいの気持ちで婚姻を進めたことになっていましたね。
しかし実際はそんな生易しいものではなかったでしょう。
家康を除いた四大老・五奉行は、家康に「糾問使」を送って婚姻の罪を責め立てます。すると家康の反応は意外なものでした。糾問使に対して、
「うかつであった」
と素直に謝罪したのです。
三成を挑発したかと思えば謝罪する。これはなかなか高等な交渉テクニックですね。三成はこれ以上家康を糾弾できなくなって、「キー!」と悔しがったのではないでしょうか。
ドラマ上では素直な謝罪というよりも、脅しに近い雰囲気でしたが笑。
三成と家康の対立が深まる中、両者の宥和を図っていた重鎮の前田利家が病死してしまい、最適任の仲介役が失われてしまいました。
三成が構築しようとした家康包囲網は腰砕けに終わり、逆に加藤清正を中心とした三成包囲網が動き始めます。
これまた営業職の話に例えると、こんな感じでしょうか。
本社採用の憎たらしいキャリア(石田三成)が営業所長として居座っていて、エリア職の営業課員たち(加藤とか福島とか)はストレスが溜まる一方です。
一方、お隣の営業所長(徳川家康)は同じく本社採用のキャリアでありながら、叩き上げの社員たちを大事にしてくれます。何かと気にかけてくれて、愚痴を聞いてくれるわけです。
こうして営業課員のほとんどが、お隣の所長になびいてしまいました。
こうして、全営業所から支持を集めた家康が、社長に就任していくわけです。
三成襲撃事件
前田利家が死んだ直後に起こったのが、三成襲撃事件です。
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が石田三成邸を襲撃しました。三成はからくも逃亡し、なんと家康邸に逃げ込みます。
加藤らは家康邸にやって来て三成を引き渡すよう求めますが、家康は三成を守り切りました。
家康としては、いま三成を斬ってしまうと豊臣家の内紛が終結してしまい、天下を取るチャンスを失ってしまうため、三成を助けるしかないのです。そして三成はそれを知った上で、あえて敵であるはずの家康邸に逃げ込んできたのでした。
・・・と。
このエピソードは非常に有名で、戦国大河ではいつも描かれるものなのですが、どうもこれは江戸時代の創作のようです。
確かに、ストーリーとして面白すぎますよね。いかにも創作っぽいです。
実のところは、
「加藤ら七将が三成を襲撃しようとしたので、家康が間に入って戦をやめさせ、三成が佐和山城(滋賀県彦根市)に隠居することで一同を納得させた」
といったところのようです。今回の大河でも、
「三成が家康邸に逃げ込んだ」
というお決まりのエピソードはあえて描かれませんでしたね。
三成、佐和山城に隠居
三成は領地の佐和山城に戻り、中央政界から身を引くこととしました。
ちなみに
「三成に過ぎたるものが二つある 嶋の左近と佐和山の城」
という歌があります。家臣である嶋左近(しまさこん)と佐和山城が三成にとって身に余る宝なんですね。嶋左近はこの後、関ヶ原で大いに活躍してくれるはずです。
さて、三成はこの佐和山城から家康への逆襲を企図することとなります。
次回は一体どこまで描かれるのでしょう。楽しみですねえ。
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