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30年日本史00955【南北朝初期】藤氏一揆

だんだん南北朝のマニアックな話になってきますが、太平記のみならず有名なエピソードは頑張って全部拾っていきます。

 話を南北朝の争いに戻しましょう。
 興国2/暦応4(1341)年5月。南朝の内部で時ならぬ内紛が起こります。その内紛の主役となったのは、近衛経忠(このえつねただ:1302~1352)でした。
 近衛経忠は何とも複雑な経歴の持ち主です。建武政権において後醍醐天皇から重用され、建武元(1334)年2月には右大臣に就任し、建武2(1335)年11月には左大臣に昇進しました。ところが、その後醍醐天皇が比叡山に脱出してからは北朝方に仕え、延元元/建武3(1336)年8月には光明天皇から関白に任ぜられました。
 ところがところが、比叡山から京に戻った後醍醐天皇がさらに吉野に脱出すると、今度は北朝方を裏切って吉野に向かうのです。延元2/建武4(1337)年4月に京を脱出して吉野入りして左大臣に就任するも、いまいち優遇してもらえなかったらしく、それを不満に感じて興国2/暦応4(1341)年5月に「藤氏一揆」と呼ばれる内紛を起こすのです。要するに、不満があるとすぐに主君を裏切るタイプのようです。
 藤氏一揆とは、近衛経忠が吉野における藤原勢力を結集して、集団で出奔し京へ向かった事件です。一説によると、近衛経忠は北朝との和平を探ろうとしていたところ、北畠親房に近い公卿らがこれに猛反対したため、アンチ親房派の人間を集めて京へ逃げたといいます。しかし、その数年後には近衛経忠はやはり吉野に仕えていたことを示す史料もあり、実情は定かではありません。
 いずれにせよ、南朝内部で経忠を始めとする和平派が増えてきたのは事実なのでしょう。
 この藤氏一揆の影響は常陸国の攻防にもじわりじわりと及んで来ました。
 藤氏一揆の起こる直前、常陸国では、護良親王の子・興良親王(おきよししんのう:1326~?)が征夷大将軍に任官された上で吉野から派遣されて小田城に入り、南朝方が大いに士気を上げていました。ところが、藤氏一揆の情報が入ってきたことで、南朝方の協力者であったはずの結城親朝が、徐々に日和見を始めてしまうのです。
 事実、この頃に北畠親房が結城親朝に宛てた書状の中に、
「浄光(じょうこう)などという僧が吉野から使者として派遣されて来たようであるが、およそ信用できる者ではない」
との記述があり、どうやら浄光とやらが後村上天皇の使いと称して常陸の武士たちに何らかの指示・連絡をしている様子が窺えます。さらにこの書状の続きには、
「吉野殿上さま御幼稚。政事を知ろしめされず」
(後村上天皇はまだ幼く、政治が疎かになっている)
と親房の強烈な不満が記されており、どうやら吉野の中で「北朝と和睦しよう」という一団が力をつけていることに親房は不満を持っているようなのです。浄光とやらは、吉野の中の和睦派が常陸に派遣した使者で、南北朝の宥和を訴えているのではないでしょうか。
 この後もしばらく、親房の苦境が続きます。

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