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30年日本史00904【南北朝最初期】瓜生兄弟の戦死

 話を再び越前情勢に戻します。
 延元2/建武4(1337)年1月11日。雪の勢いが収まったことから、杣山城に立て籠もる脇屋勢は、金ヶ崎城に迫る足利方を討つべく軍を派遣しました。大将は里見時成(さとみときなり:?~1337)です。一方、足利方もこれを予見しており、高師泰の命を受けた今川範国を大将とする2万騎が待ち構えていました。
 夜が明けるのを待って、里見勢の300人が今川勢に攻めかかりましたが、敵の大軍に射立てられてすぐに引き下がってしまいます。
 里見勢の二番手として、瓜生保・義鑑房の兄弟率いる700騎が今川勢に攻めかかります。一旦は今川勢の防衛ラインを打ち破りましたが、そこに高師泰率いる3千騎がやって来て、さすがに追い立てられてしまいました。
 このとき「引き返せ」と大声で指揮を執っていた里見時成を見た足利方の兵たちは
「これが大将だな」
と直感し、取り囲んで討とうとします。瓜生保・義鑑房兄弟は、
「我らがここで討ち死にしなければ、味方の軍勢は助かるまい」
と言って、二人だけで敵兵に攻めかかっていき、大将たる里見時成を守ろうとしました。
 瓜生兄弟の他の弟3人が戻ってきて兄弟を助けようとしますが、義鑑房は
「我ら二人がここで討ち死にするのは一時の敗北だ。しかし全員が死んだら末代までの敗北となる。来るな来るな」
と声を荒げて皆を止めました。
 結局、瓜生兄弟はその場で敵に討たれ、大将の里見時成もまた、この戦いで討たれてしまいました。勝利した今川勢は、
「先日の敗戦では武具を置いて逃げ出したものだが、今回それらの武具を取り返したぞ」
と敵をあざ笑いました。
 敗北した南朝方の兵たちの多くは、家族や仲間を失い泣き悲しんでいましたが、瓜生兄弟の母だけは全く悲しむ様子がありません。この母は脇屋義治のもとにやって来て、こう述べました。
「この度敦賀に向かいました者たちの不手際によって里見殿が討たれてしまい、ご心中お察し申し上げます。しかし、もし瓜生の兄弟全員が無事に帰って来ていたら、情けなさを晴らしようもなかったでしょう。瓜生の兄弟二人が里見殿のお供をしたことは不幸中の幸いと思っております。もとより帝のためにこの一大事を思い立った以上は、どれほど多くの子が討たれましても嘆こうとは思いません」
 これを聞いた兵たちは、気力を取り戻したというのですが、息子の戦死を「不幸中の幸い」と評するとは、ずいぶんと支配者に都合のよい論理だなあと思います。

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