30年日本史00959【南北朝初期】神皇正統記 伊勢神道の影響
延元4/暦応2(1339)年、北畠親房が常陸国小田城(茨城県つくば市)に滞在し、「神皇正統記」という歴史書を執筆し始めたことは既に述べました。この歴史書は結局、関城に移ってから完成しました。この歴史書の内容について紹介していきたいと思います。
神皇正統記は歴史書でありながら、「日本は天皇を中心とした神の国である」という思想を教化するための思想書でもあります。最も有名な記述は、冒頭の
「大日本は神国なり」
や、後半部分の
「武士たる輩、言へば数代の朝敵なり」
といったところでしょう。
北畠親房はひたすら武士を嫌い、鎌倉幕府も室町幕府も天皇による親政を妨害する敵と考えていたのでしょう。
このような親房の思想はどこで得られたものなのかはっきり分かっていませんが、延元元/建武3(1336)年から延元3/暦応元(1338)年まで伊勢に滞在していた際に、伊勢神道に触れたことで触発された可能性があります。当時、伊勢神宮の神官である度会家行(わたらいいえゆき:1256~1351?)が「伊勢神道」と呼ばれる神道の一説を唱えていたのです。
「伊勢神道」とは一言でいうと、「神は仏よりも上位である」との思想です。
中世の日本では、神仏習合といって神と仏は同一視されていました。しかし具体的には、
「天照は大日如来が姿を変えて現れたものである」
といったように、仏が神よりも上位に位置する「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」という思想が根底にありました。
ところが度会家行はその逆を唱え、
「神が本来の姿であって、仏は神が姿を変えたものに過ぎない」
という「神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)」を唱えたのです。この神本仏迹説を体系化したものが伊勢神道です。
どこまでも天皇と神とを最上級に敬うこの思想が、親房には非常に受け入れやすかったのでしょう。天皇親政を妨害する足利家は悪であり、その足利家と妥協する北朝方の天皇は偽の天皇であり、あくまでも理は南朝方にある……と親房は主張し、それを誰かに伝えるべく、「神皇正統記」を書いたのでした。
その「誰か」とは……?