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30年日本史00862【建武期】多々良浜の戦い 阿蘇惟直自害

 多々良浜で敗れた菊池武敏を、足利軍の一色範氏(いっしきのりうじ:1300~1369)と仁木義長(にっきよしなが:?~1376)が追撃していきます。菊池武敏は本拠地の菊池城(熊本県菊池市)に戻りますが、これも追撃を受けて1日で陥落してしまい、武敏は山に逃げ込みます。
 一方、阿蘇惟直は重傷を負いながらも、天山(佐賀県唐津市)を越えて有明海へ出て、肥後に逃げ帰りました。
 この阿蘇惟直の逃避行についていくつかの伝説が残っています。
 まずは名刀・蛍丸についてです。惟直は弟・惟成(これなり)の肩に支えられながら、追撃してくる敵を打ち払い続けました。その結果、名刀・蛍丸は刃こぼれで鋸のようになってしまうのですが、その夜惟直は夢の中で、こぼれた刃の欠片が無数の蛍になって、元の刃に宿っていく様子を見ました。
 そして目を覚ましてみると、本当に刃こぼれが直っていたというのです。
 その後、惟直は小杵山(佐賀県小城市)に逃げのびたところで、千葉胤貞(ちばたねさだ:1288~1336)の軍に追いつかれてしまい、自害しました。弟の阿蘇惟澄(あそこれずみ:1309~1364)は負傷しながら唐津から海路で肥後へと逃げ帰りました。
 小城市に伝わる伝説によると、阿蘇惟直は
「私の遺骸は阿蘇山の煙が見えるところに葬ってくれ」
と遺言したといいます。これを受けて地元の人たちは天山の頂上に惟直を葬り、碑を建てました。今も天山に阿蘇惟直の石碑がありますが、これは建武期に建てられたものがそのまま残っているわけではなく、建て直されたもののようです。
 また、惟直の妻・姫御前(ひめごぜん)についての伝説も残っています。姫御前は一人で惟直の慰霊のために小城にやって来て、地元の人におにぎりなどをもらって匿われていましたが、やがて千葉胤貞軍に見つかり自害に追い込まれました。
 現在も瓢塚(佐賀県唐津市)の地には姫御前を祀った碑があり、そこではおにぎりを供える祭りがあるといいます。
 阿蘇惟直やその妻にこれだけたくさんの逸話があるのは、その人気の高さを示しています。阿蘇惟直はただ武将というだけでなく阿蘇神社の大宮司でもあり、地元の人たちから宗教的な意味でも多くの支持を集めていたのです。
 現在も阿蘇神社の大宮司は阿蘇一族が務めており、現在の大宮司は末裔である阿蘇治隆(あそはるたか)氏です。

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