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30年日本史00977【南北朝初期】四条畷の戦い 陽動作戦

間もなく連載1000回なんですが、何か特別なことをした方が(書いた方が)よいのでしょうか。企画力がなくて何も思いつきません。

 高師直・師泰兄弟は淀と八幡で年を越し、正平3/貞和4(1348)年となりました。
 楠木正行が吉野を出陣して河内の往生院(大阪府東大阪市)に到着したとの情報が入ってきたので、師泰は1月2日に淀を発ち、2万騎で堺(大阪府堺市)へと入りました。一方、師直も1月3日に八幡を発ち、6万騎で四条畷に到着しました。さらに師直・師泰の直轄隊以外の北朝軍は飯盛山(大阪府四条畷市)に布陣します。
 師直は、楠木軍に自ら攻めかかっていくのではなく、むしろ敵から先に手を出させた方が良いと判断し、全軍に陣地を固めて待機するよう命じていました。ひどく慎重な態度ですね。
 1月5日朝、南朝方の四条隆資を大将とする2万騎が、飯盛山に攻めかかっていきました。これは北朝方の主力を飯盛山付近に足止めさせておいて、その隙に正行軍が師直の本軍を叩こうという作戦でした。
 この陽動作戦は見事成功し、北朝方の兵たちは四条隆資の軍との戦いに集中してしまいます。そのうちに、楠木正行・正時兄弟率いる3千騎が四条畷に進撃し、師直に襲い掛かります。このとき、師直を守ろうと正行軍の前に立ちはだかったのが武田信武(たけだのぶたけ:1292~1359)の軍でした。
 楠木軍と武田軍は真っ向からぶつかり合い、互いに多くの戦死者を出しながら両者一歩も退かずに斬り合いを続けました。そのうちに、四条隆資軍と戦っている北朝方が陽動作戦に騙されたことに気づき、楠木軍を叩こうと飯盛山を降りて四条畷の方へ向かって来ました。
 このとき、飯盛山の上には北朝方の佐々木道誉がいました。道誉は以前、狼藉を起こして配流されていましたが、この頃には許されて戻ってきていたのです。道誉は、
「楠木軍が十分疲れたところで勝負を挑み、討ち取ってやろう」
と考え、楠木軍と武田軍の戦いがある程度長引いたところでわっと飯盛山から駆け降りていきました。実に道誉らしい戦い方ですね。
 楠木軍の兵たちは、疲れたところを敵の大軍に横腹を突かれ、さらに佐々木道誉の軍までもが攻撃してきたので、これ以上は持ちこたえられないと考え、多くの被害を出しながら後退していきました。
 しかし楠木軍のうち、如意輪寺に名を書き連ねた143名だけはもはや討ち死にを覚悟していましたから、退却せずに師直の本陣へと突っ込んでいきます。正行・正時兄弟を始めとする精鋭たちが、いよいよ師直の首に迫ります。

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