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30年日本史00046【弥生】弥生町遺跡の位置

 さて、有坂が弥生土器第1号を発見した場所は現在どうなっているのか。実は、それがどこなのか分からなくなってしまっているのです。
 明治以降、弥生町一帯で大規模開発がなされ、有坂本人すら当時の発掘現場がどこかは分からなくなってしまいました。大正12(1923)年、有坂は講演で
「遺跡の正確な位置はわかりません」
と述べています。
 戦後の昭和39(1974)年になって、近所の根津小学校の6年生ら3名が、東京大学浅野キャンパス内で土器を発見しました。その場所が「弥生二丁目遺跡」と名づけられて保存されることとなるのですが、それが明治時代に有坂らが発掘した「弥生町遺跡」と一致するかどうかは、学者の間でも意見が分かれるところです。というのも、弥生二丁目遺跡の場所は明治時代には警視庁射的場として立入禁止だったはずであり、有坂ら学生が入れるはずがないのです。
 ただし、
「有坂が大事な思い出の発掘場所を果たして忘れるだろうか」
と疑問を抱く声があります。もしや、警視庁射的場に不法侵入して発掘したからこそ、「忘れた」と言ってごまかしているのではないか、という意見です。この意見に従うと、弥生二丁目遺跡こそが明治時代に発見された弥生町遺跡と同一のもの、ということになります。
まあ憶測の域を出ませんが。
 昭和61(1986)年、浅野キャンパスの一角に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の記念碑が設けられました。結局どこが発掘地なのか分からなかったため、「ゆかりの地」という妥協的な名称になってしまったものです。
 ちなみに、記念碑から見て道路の反対側の歩道上に、「弥生式土器の発見地」と題する看板が立てられています。その看板に、発見地の候補地が4つ書かれており、地図も載っていますので、弥生町遺跡の候補地をめぐってみたい方は、この看板を見て4つの候補地を目指すと良いでしょう。
 さて、有坂が発見した弥生土器第1号そのものは、現在東京大学総合研究博物館に所蔵されており、ごくたまにしか一般公開されません。ただし、本郷三丁目駅から徒歩5分の立地にある文京ふるさと歴史館で原寸大のレプリカを見学することができます。
 この弥生土器第1号を一言で表現するなら、「無味乾燥な壺」ということです。
 縄文時代にあれだけ装飾が施された芸術的な土器を完成させておきながら、弥生時代の土器のこの無機質さは一体何なのでしょうか。稲作が始まり、戦争も始まり、土器作りは楽しみではなく実用的な営みとしてしか見られなくなってしまったのでしょうか。
 縄文土器と弥生土器を見比べると、文明というものが人間の遊び心を殺していく過程を見るような思いがします。

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