30年日本史00049【弥生】論衡、山海経、漢書地理志
さて、前回までは考古学上の弥生時代について見てきました。今回からは、文献史料上に見られる弥生時代の姿を見ていきます。文献史料といっても、現存する日本の史料で最古のものは古事記・日本書紀であり、これらが弥生時代の正しい姿を伝えているとは思えません。やむなく、中国の歴史書を紐解く必要があります。
中国の歴史書のうち、日本に関する最も古い情報が書かれているのは、「論衡(ろんこう)」と「山海経(せんがいきょう)」の2書です。
「論衡」は後漢時代の王充(おうじゅう:27~?)が書いた思想書兼百科事典です。
「成王のとき倭人は暢草を貢ず」
との記述があり、これを鵜呑みにするならば、倭国は周の成王(せいおう:B.C.1021?~B.C.1002?)の時代に暢草(ちょうそう:酒に浸す薬草のこと)を貢いで来たということになります。実に紀元前11世紀の出来事です。紀元前11世紀の出来事を、1世紀に書いているわけですから、何か別の出典が出てこない限りはとても信用できない記述と見ていいでしょう。
一方、「山海経」は紀元前4世紀から紀元後3世紀にかけて、多くの人々によって書き継がれて来た地理書です。「倭は燕に属す」との記述があるのですが、これがいつ頃書かれたものなのかはっきりしません。燕(えん)とはB.C.222年に滅亡した王朝で、今のところ倭国が燕に朝貢した証拠はなく、この1行だけの記述を信用できるとは思えない、というのが通説です。
以上の2書は信用ならないということで、高校教科書などでは全く取り上げられていません。倭国に関する記述のうち比較的信頼の置ける最初のものは、「漢書地理志」ということになります。
「漢書」は班固(はんこ:32~92)が編纂した歴史書で、紀元前1世紀の倭国の状況を1世紀に記述したものですから、まあ先程の2書に比べれば信頼性が高いと考えられます。気になる倭国に関する記述は、
「楽浪海中に倭人あり。分ちて百余国となし、歳時をもって来たりて献見すという」
の1行だけです。
楽浪郡とは、漢が現在の平壌(ピョンヤン)に設置した郡です。漢の立場から見ると、倭国は楽浪郡の向こう側の海中にあるので「楽浪海中」と表現したのでしょう。
この記述により、紀元前1世紀の倭国は百余国に分かれており、漢に対して朝貢するレベルに達していたことが分かります。
しかし、百余国のうちの何という国が朝貢していたのか、百余国の関係はどのようなものだったのか、どんな品物を貢いで来たのかなど、一切触れられておらず、漠然としています。
とはいえ、1世紀に書かれている以上、後知恵による情報の付け足しがなされている心配はありませんから、弥生時代の倭国の状況を伝える重要な史料といえるでしょう。
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