見出し画像

30年日本史00891【建武期】義貞の越前行

 ここで少々時間は遡りますが、比叡山で後醍醐天皇と別れて越前を目指した新田義貞の動向に目を転じてみましょう。
 比叡山を出た義貞は、堅田(滋賀県大津市)で最愛の女房・勾当内侍と別れることにしました。冬の北国への行軍は、女性を連れて乗り切れるような生易しいものではなかったのでしょう。太平記には
「平時の別れでさえも涙ながらなのに、まして義貞は行くあてもなく北国へと赴くのである。再び生きて会えるかどうかも定かではなかった」
と書かれています。事実、これが義貞と勾当内侍にとって今生の別れとなってしまいます。
 延元元/建武3(1336)年10月11日。義貞は7千騎で塩津(滋賀県長浜市)に到着しました。そのまま越前国に入りたいところですが、途中の道を足利方の斯波高経(しばたかつね:1305~1367)率いる大軍が塞いでいるとの情報が入ったため、進路を変更して木ノ芽峠(きのめとうげ:福井県南越前町)を越えることとしました。
 冬の越前の峠は相当に厳しい道のりだったことでしょう。「太平記」はこの旅の過酷さについて
「山路の雪が甲冑に降り注ぎ、鎧の袖を翻して顔を激しく打った。兵たちは寒い谷で道に迷い、宿も見当たらないので、木の下や岩の陰に縮んで横になるしかなかった。薄着の者や餌を与えられなかった馬は次々と凍死していった」
と記載しています。
 この大雪で迷って敵陣に行き着いてしまった千葉貞胤は、斯波高経から
「我が方に出ておいでなさい。これまでのことはどうにかして許しを得てみせましょう」
と優しい言葉をかけられ、不本意ながら降伏することとなりました。
 10月13日、義貞はようやく金ヶ崎城(かねがさきじょう:福井県敦賀市)に到着しました。金ヶ崎城は気比神宮(福井県敦賀市)の大宮司である気比氏治(けひうじはる:?~1337)が城主を務める城で、新田軍を歓待してくれました。しかし全軍が入れるほど余裕のある広さではなかったため、義貞・義助兄弟は恒良親王とともに金ヶ崎城に留まり、息子の新田義顕は2千騎で越後国へ、脇屋義治は千騎で杣山城(そまやまじょう:福井県南越前町)へ移ることとなりました。
 後醍醐天皇に捨てられた義貞一行は、ようやく落ち着ける場所を見出したようですが、後述するように、やがて後醍醐天皇が吉野で「本物の神器は私が持っている」と主張し始めることとなります。裏切られたことを知った義貞と恒良親王の心情は察するに余りありますが、残念ながらこの点について2人がどう感じたかは記録されていません。

この記事が参加している募集

#日本史がすき

7,396件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?