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30年日本史00929【南北朝最初期】藤島の戦い 新田軍解散

 戦が終わって、氏家重国(うじいえしげくに)が斯波高経の前に進み出て、
「私は新田殿の一族と思われる敵を討ち取りました。名乗りがなかったので誰かは分かりませんが、馬や武具から見て並の武者ではないと思われます」
と言って、首を見せました。まさか大将たる義貞だとは思っていなかったようです。
 これを見た斯波高経は
「これは新田殿の顔つきに似ているところがあるぞ。もしそうなら、左の眉の上に矢の傷があるはずだ」
と言って自ら櫛で髪をかき上げ血を洗い、土を落として見てみたところ、果たして左の眉の上に矢傷がありました。さらに死体が持っていた二振りの太刀を取り寄せて見てみると、それぞれ「鬼切」「鬼丸」という文字が刻まれており、源氏に伝わる家宝であることが分かりました。
 加えて、死体が持っていたお守りを開いて見てみたところ、後醍醐天皇の直筆で
「朝敵征伐のこと、ひとへに義貞の武功にあり」
と書かれており、この死体が新田義貞その人であることが明らかになりました。
 斯波高経は喜んでこの首を京の尊氏のもとに送りました。
 ちなみに尊氏は「鬼切・鬼丸は源氏嫡流が管理すべきものであるから、すぐに送るように」と指示したのですが、斯波高経は「火事で焼けた」と偽ってこれを渡さなかったため、尊氏・高経の関係はこの後悪化していくこととなります。高経は足利一族の出身なので、自らが将軍にとって代わる野心を抱いていたかもしれません。
 一方、新田軍の将兵らは義貞が行方不明となったので慌てていました。脇屋義助は石丸城(福井県福井市)へ帰って義貞の行方をあちこちに尋ねましたが、しばらくして「どうやら討たれたらしい」ということが分かってきました。将兵たちは
「すぐにでも討って出て、大将の討たれた場所で討ち死にしよう」
と言いますが、多くの兵は気が抜けて茫然とするばかりで、出かける気力もありません。
 そうしているうちに兵たちも心変わりしてしまい、裏切り者が石丸城に火をかけようとすることが三度も起こりました。これを見た斉藤季基(さいとうすえもと)や斉藤道猷は、もはや勝ち目なしと判断して夜のうちに陣を捨てて逃げ出してしまいます。
 さらに、ある者は出家し、ある者は小黒丸城へ降伏に行き、昨日までは3万騎を超えていた兵の数は、たった一夜のうちに次々に逃げて僅か2千騎となってしまいました。越前の南朝方は、義貞の知名度だけで集まっていたということでしょう。
 延元3/建武5(1338)年閏7月11日。脇屋義助・義治父子は、700騎を連れて越前国府へと戻っていきました。実に無念な敗戦でした。

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