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30年日本史00526【鎌倉初期】宗盛・清宗の最期

 義経が連れてきた捕虜・平宗盛は、元暦2(1185)年6月7日に頼朝と対面しました。宗盛は卑屈な態度で助命を乞い、一同から嘲笑されたといいます。重衡が立派な態度で鎌倉武士を唸らせたのに対し、宗盛は大将軍の器ではなかったということでしょう。
 もはや鎌倉に留める必要もないと判断した頼朝は、6月9日、宗盛・清宗父子を京に返すようにと義経に命じました。結局義経は、鎌倉に入ることなく京に戻ることとなりました。
 6月21日。宗盛・清宗父子は近江篠原(滋賀県野洲市)に差し掛かりました。ここが父子の処刑場です。昨日までは父子一緒にいたのに、今朝から別々にされたことから、宗盛は
「いよいよ今日斬られるのか」
と覚悟を固めました。
 義経は大原の来迎院から僧・湛豪(たんごう)を呼んできて、宗盛に引き合わせました。宗盛は湛豪から
「最期に当たっては、極楽往生のこと以外を考えてはいけません」
と聞かされ、しきりに念仏を唱えながら斬首を待ちました。しかし後ろに処刑役の武士が近づいてきたときに、ふと
「息子は既に斬られたか」
と尋ねてしまいます。その瞬間に宗盛は首を斬られました。
 一方、子の清宗の方にも同様に湛豪が最後に面会しました。清宗が
「父上はどのような最期でしたか」
と尋ねると、湛豪は
「ご立派な最期でした。ご安心ください」
と答えました。本当に、この父子は最後まで互いを思いやっていたのですね。義経はこの父子の亡骸を一緒に埋めてやりました。
 6月23日、父子の首が都に入りました。鎌倉へ出発する際は生きたまま六条通りを東に引き回されましたが、今度は首だけが三条通りを西へ引き回されました。そして三条河原の獄門にその首がかけられました。
 三位以上の公卿が獄門にかけられるのはこれが初めてのことでした。これまでも、藤原信頼が処刑されたことはありましたが、その地位の高さを憚って獄門にはかけられなかったのです。平家物語は、
「生きての恥、死んでの恥。どちらも劣らぬひどい恥であった」
と結んでいます。

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