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30年日本史00902【建武期】南北朝正閏論争

 後醍醐天皇が吉野で「皇位はまだ自分にある」と宣言したことで、南北朝時代が始まりました。これ以降、吉野の後醍醐天皇方を「南朝」と称し、京都の光明天皇方を「北朝」と称するわけです。
 我々後世の人間は、南朝と北朝のどちらを正統な天皇と考えるべきなのでしょう。人それぞれ考え方があってよいのでしょうが、明治時代には「政府としての見解を統一すべきだ」との考えから、国を揺るがす大論争となったことがあります。
 そもそも南朝は、北朝に比べてひどく脆弱な体制でした。京に比べると吉野の御所は小さく、大納言や参議を置いてはいるもののその人数も少なく、規模だけで判断すると北朝を正統と考えたくなります。しかも明徳3(1392)年に南北朝が合一された後は、ずっと北朝方が天皇位を独占しており、現在の天皇も北朝方の子孫です。
 しかし江戸時代に徳川光圀が「大日本史」を編纂した際、本物の三種の神器がどちらにあったかに注目して「南朝を正統」とみなし、楠木正成を忠臣として神聖視する歴史観を掲げました。その光圀の尊王思想が幕末の倒幕運動と明治新政府の設立につながったわけですから、明治新政府の人たちは
「北朝の子孫である明治天皇に仕えながら、南朝正統論の立場をとる」
という複雑な態度をとることになったのです。
 明治時代の国定教科書では、南北両朝は中立的に描かれていました。ところが明治44(1911)年2月に衆議院議員の藤澤元造(ふじさわもとぞう:1874~1924)が
「南朝と北朝、いずれを正統とするのかについて、政府の統一見解はないのか」
とこの問題を追及し始めました。
 いろいろ議論がなされたものの、最終的には明治天皇の裁断によって
「三種の神器を所有していた南朝(後醍醐天皇方)が正統である」
と決定されました。これにより、北朝の光厳天皇、光明天皇を始めとする5代の天皇はその即位を否定されることとなり、歴代天皇から外されることとなりました。
 明治天皇が自らの祖先である北朝側に不利な判断をしたとは意外の感がありますが、逆に当事者たる明治天皇にしかそうした決断はできなかったのでしょう。
 この議論を「南北朝正閏(せいじゅん)論争」といいます。「正」とは真のもので、「閏」とは本来から外れたものという意味です。「閏年(うるうどし)」などに使われる文字ですね。
 こうして一旦南朝を正統と認めたことで、大日本帝国では足利尊氏が必要以上に悪者とみなされるようになりました。
 昭和9(1934)年には、尊氏を賛美する論文を書いたという理由で中島久万吉(なかじまくまきち:1873~1960)商工大臣が辞任に追い込まれるという事件も起こり、国民は極端な南朝至上思想に染まっていったのです。

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