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30年日本史00928【南北朝最初期】藤島の戦い 義貞の最期

 細川方300騎は徒歩の兵が多く、義貞たちに次々矢を放ってきました。一方で義貞ら50騎は馬に乗っていましたが、戦闘を予期していなかったため、矢も楯も持っておらず、兵が義貞の前に立ち塞がって防ぐしかありません。そのまま兵たちは次々射られてしまいます。
 このとき、義貞に付き従っていた中野景春(なかのかげはる)が、
「大弓は鼠を射るために使うものではありません」
と述べました。大将たる者、この程度の敵に対してわざわざ戦う必要はないので、早く逃げましょうという意味でしょう。
 ところが義貞は、
「兵を死なせておいて一人で逃げるのは、我が意に添わぬ」
と言って、敵中に駆け込もうと馬に鞭して進んでいきます。
 この馬は名馬で知られており、堀を飛び越える跳躍力を持っていたはずでしたが、既に矢を5本も受けて弱っていたせいか、小さい溝につまずいて転んでしまいました。落馬した義貞は起き上がろうとしますが、その瞬間、眉間の真ん中に敵の矢が刺さり、義貞は目がくらみ立ち上がることもできなくなりました。
 義貞はもはや助からないと覚悟し、敵がやって来る前に太刀で自ら首を斬り、田の中に倒れました。中野景春をはじめ、義貞軍の兵たちは大将の死に衝撃を受け、そのまま義貞の死骸の前で次々と切腹していきました。
 こうして南朝の総大将・新田義貞は、圧倒的に有利なはずだった戦いの中で、たまたま少人数で行動していたところを襲われ、あっけなく戦死しました。
 「太平記」は義貞の死について、こうしめくくっています。
「この人は帝の腹心として武将の地位をいただかれたので、身を慎み命を全うして、有意義な功績をあげねばならなかったはずなのに、自らつまらぬ戦場に出かけて、名もなき兵の矢に当たって命を落とすとは、運が尽きたということであろう。実に情けないことであった」
 その後、江戸時代になって明暦2(1656)年に燈明寺付近をたまたま耕作していた嘉兵衛(かへえ)という百姓が偶然に兜を掘り出しました。これが福井藩の軍学者・井原番右衛門(いはらばんえもん)によって「新田義貞着用のもの」と鑑定されます。そこでこの地に「新田義貞戦死此所」と刻んだ碑が建てられ、明治3(1870)年には義貞を祀る藤島神社が建てられました。
 しかしその兜は、現在は戦国時代のものと鑑定されており、ここが真に義貞最期の地かどうかは疑問視されています。

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