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7人の為政者と3つの病理で読み解く終戦史(全25回)

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2022年7月22日から8月15日まで連載。昭和20年8月15日の終戦について、7人の為政者に着目しながら、なぜ早期に降伏できなかったか、その意思決定プロセスの問題点を読み解きま… もっと読む
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終戦史25 降伏という名の勝利(最終回)

終戦史25 降伏という名の勝利(最終回)

前回、終戦のためのハードルとして、以下の4点を挙げました。
【1 精神論の偏重】
【2 ボトムアップ型の意思決定システム】
【3 調整型の意思決定システム】
【4 政府と軍部の一方向的権限関係】

では、これらのハードルを克服するために、鈴木たち大日本帝国の首脳は、何をなしたのでしょうか。
主として4点の「演出」によって、鈴木らは大日本帝国が抱える病理を乗り越えたのではないかと思われます。

【1

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終戦史24 最も愚かしく、降伏に向かないシステム

終戦史24 最も愚かしく、降伏に向かないシステム

さて、310万人が死ぬという歴史上最大の被害を出しながら、なおも降伏の決断ができなかった理由は何なのか。
第2回から第4回に一般論として書いたことを、終戦の決断という論点に絞って説明していきます。

【1 精神論の偏重】

まずは、精神論の偏重という悪弊が挙げられます。

神国日本が負けるわけがない。今は戦局が好転していないだけだ。この後、米軍に大打撃を加えられるはずだ。
帝国陸軍における精神論を

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終戦史23 なぜ決断できなかったのか

終戦史23 なぜ決断できなかったのか

さて、鈴木内閣が発足した昭和20(1945)年4月の時点で、もし終戦を決定するとしたら、閣議及び最高戦争指導会議がその役割を担うはずでした。

閣議のメンバーは以下の18名です。

内閣総理大臣: 鈴木貫太郎(退役海軍大将)
外務大臣: 東郷茂徳
内務大臣: 安倍源基
大蔵大臣: 広瀬豊作
陸軍大臣: 阿南惟幾(陸軍大将)
海軍大臣: 米内光政(海軍大将)
司法大臣: 松坂広政
文部大臣: 太田耕

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終戦史22 八月十五日の終戦なかりせば

終戦史22 八月十五日の終戦なかりせば

私はこの連載の第1回で、こう述べました。
「ここまで来たらもう敗北は必至ではないかと思われるポイントは多々ありました。後知恵だと言われるかもしれませんが、そのタイミングで降伏していれば、被害はもっと少なく済んだのではないかと思うのです」

確かに8月15日の終戦は遅すぎました。
もっと早く降伏していれば、2発の原爆を投下されることはなかったし、ソ連に北方領土を奪い取られることもなかったでしょう。

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終戦史21 玉音放送

終戦史21 玉音放送

阿南陸相が自刃してまもないころ。
佐々木武雄(ささきたけお)大尉率いる横浜警備隊約100名が、
「国賊鈴木を殺せ」
と大号令をあげて、首相官邸を襲撃しました。

佐々木大尉らは、まだ阿南陸相の自刃を知りません。

首相官邸の職員から
「首相は本郷の私邸にいる」
と聞かされた佐々木大尉らは、さらに本郷へと向かいます。

しかし鈴木首相は、襲撃隊が来る10分前に妹宅に避難し、難を逃れました。
怒り狂っ

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終戦史20 陸軍大臣の自刃

終戦史20 陸軍大臣の自刃

さて、畑中少佐と決別した井田中佐は、事の次第を報告するため、陸相官邸を訪れました。

阿南陸相は白装束を身につけ、自決の準備を整えていたところでした。
「おう、井田か」
と声をかけられた井田は、阿南にクーデターの状況を伝えました。

阿南は、
「森が死んだことは聞いた。だが東部軍が鎮圧に向かった以上、反乱は失敗だ。それで良い」
と述べ、
「玉音放送を聞くのは忍びない。放送前に死ぬこととする」
と言

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終戦史19 鎮圧

終戦史19 鎮圧

さて、皇宮内を反乱軍が占拠しているさなか、8月15日午前2時過ぎ。
東部軍司令官の田中静壹大将のもとに、
「近衛師団長による決起命令が発せられた」
との知らせがもたらされました。

東部軍司令部には、ちょうど森師団長が殺害されたという知らせが来たばかりですから、当然、
「これは偽の命令ではないのか」
との疑義が生まれます。

血気にはやる田中司令官が
「直ちに鎮圧に向かう」
と出かけようとしますが

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終戦史18 昭和天皇裕仁

終戦史18 昭和天皇裕仁

天皇の寝室に向かう戸田侍従の足取りは、ひどく重いものでした。なにしろ、信頼していた近衛師団が反乱を起こしたという事態です。「陛下のお嘆きはいかばかりだろうか」と戸田は心を痛めていました。

さて、この稿を始めるに当たって私は、終戦に寄与した昭和天皇、鈴木貫太郎、東郷茂徳、阿南惟幾、米内光政、下村宏の7人を挙げました。それぞれの人物像について解説して来て、いよいよ残すは昭和天皇だけとなりました。今回

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終戦史17 皇宮、占拠さる

終戦史17 皇宮、占拠さる

8月15日午前0時過ぎの近衛師団司令部。
参謀長室にいた井田中佐は、銃声を聞き、水谷参謀長とともに慌てて師団長室へと向かいました。中には事切れた森師団長と、銃を構えたまま立ち尽くす畑中の姿がありました。

井田中佐は怒りました。
「何ということをしてくれたのだ。師団長閣下は間もなくご決心をされるはずであった。貴様が台無しにしてくれた」
畑中は震える声で
「時間がなかった……。仕方なかったんです」

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終戦史16 近衛師団長の死

終戦史16 近衛師団長の死

いよいよ、陸軍の一部将校による反乱について取り上げなければなりません。

反乱事件の首謀者は、以下の4名です。
陸軍省軍務課: 畑中健二(はたなかけんじ)少佐
陸軍省軍務課: 井田正孝(いだまさたか)中佐
近衛師団参謀: 古賀秀正(こがひでまさ)少佐
近衛師団参謀: 石原貞吉(いしはらさだきち)少佐
(といっても、井田中佐は首謀者といえるかどうか微妙な立場なのですが……)

畑中らの計画は、首都圏

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終戦史15 陸軍大臣阿南惟幾

終戦史15 陸軍大臣阿南惟幾

ここまで読んできた皆さんにとって、阿南陸相はまさに狂信的な精神主義者であり、「軍人精神を全うするためならば日本民族が滅亡しても構わない」といった野蛮な妄想に捕らわれている人物に見えたことでしょう。
しかし、この阿南こそ、鈴木首相と同じか、いや、それ以上に、終戦に尽力した人物なのです。
阿南がいかに悲壮な思いでポツダム宣言受諾に反対して来たのか。まずは阿南の生涯を見ていきましょう。

陸軍大臣・阿南

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終戦史14 内閣情報局総裁下村宏

終戦史14 内閣情報局総裁下村宏

さて、玉音放送の録音作業がいよいよ始まるところですが、ここで、玉音放送をプロデュースした男、内閣情報局総裁の下村宏(しもむらひろし:1875~1957)という人物を紹介しなければなりません。

下村宏は明治8(1875)年和歌山県生まれ。
明治31(1898)年に東大を卒業後、逓信省に入省。
大正4(1915)年には台湾民政長官を務め、大正10(1921)年に退官し、朝日新聞社の役員となります。

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終戦史13 海軍大臣激怒す

終戦史13 海軍大臣激怒す

8月14日。終戦の詔書案を審議するために開かれた閣議は、揉めに揉めました。

例えば、
「朕はここに国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民とともにあり」
という部分。ここは当初、
「朕は…常に神器を奉じて爾臣民とともにあり」
とされていました。
しかし、連合国が天皇の権威を削ごうとして、三種の神器を取り上げてしまうおそれはないだろうか。
そのような議論が起こり、「神器」のくだり

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終戦史12 内閣書記官長迫水久常

終戦史12 内閣書記官長迫水久常

さて、8月14日正午の第二の聖断を受けて、内閣官房で行われていた「終戦の詔書」の作成作業は佳境に入りました。ここで、この作業の責任者であった内閣書記官長の迫水久常を紹介します。

迫水は明治35(1902)年東京生まれ。東大卒業後、大蔵省に入省し、岡田啓介(おかだけいすけ:1868~1952)海軍大将の娘・万亀(まき)と結婚します。昭和9(1934)年、その岡田啓介が首相に就任し、迫水は首相秘書官

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