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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2022年8月の記事一覧

30年日本史00243【平安前期】平安前期概観

30年日本史00243【平安前期】平安前期概観

 今回から平安時代が始まることになります。
 第50代桓武天皇が平安京を遷都した延暦13(794)年から、源頼朝が鎌倉幕府を築く元暦2(1185)年までを「平安時代」と呼びます。ちなみに、かつては鎌倉幕府成立を建久3(1192)年とみる考えが主流でしたが、最近は元暦2(1185)年とされています。
 平安時代は391年間も続くので、いくつかに分けて扱おうと思います。まずは平安京に遷都される延暦13

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30年日本史00242【奈良】奈良時代総括

30年日本史00242【奈良】奈良時代総括

 最後に、奈良時代の政治の流れを総括しておきます。
 奈良時代とは、藤原氏と皇族が主導権を奪い合い、交互に政権を担当した時代でした。
 最初は藤原不比等が実権を握りましたが、不比等の死後、政治権力は長屋王に集中しました。長屋王が謀略によって葬られると、藤原四子が幅を利かせるようになりますが、四子が相次いで病没すると、元皇族である橘諸兄が吉備真備と玄昉をブレーンとして政権を運営し始めます。
 その橘

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30年日本史00241【奈良】早良親王の祟り

30年日本史00241【奈良】早良親王の祟り

 藤原種継暗殺事件に連座して皇太子・早良親王が死去したため、桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ:760~790)との間に産まれた安殿親王(あてしんのう:後の平城天皇:774~824)が立太子しました。
 さて、この後なぜか桓武天皇の親族が次々と死去していきます。
 延暦7(788)年5月4日。桓武天皇の夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ)が死去しました。28歳でした。
 延暦8(789)

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30年日本史00240【奈良】蝦夷征討 巣伏の戦い

30年日本史00240【奈良】蝦夷征討 巣伏の戦い

 さて、光仁天皇が桓武天皇に引き継いだ最大の政治課題が、蝦夷の問題でした。宝亀11(780)年に伊治呰麻呂が大規模な反乱を起こしていながら、政府はそれを鎮圧できておらず、その後大きな戦闘は起きていないものの、東北からの税収は未だ途絶えたままです。
 延暦7(788)年12月7日。桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍に任命し、陸奥へ向けて送り出しました。朝廷軍は一旦陸奥国府のある多賀城に集結し、延暦8(7

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30年日本史00239【奈良】藤原種継暗殺事件

30年日本史00239【奈良】藤原種継暗殺事件

 延暦3(784)年6月10日。桓武天皇は平城京を捨て、長岡京に遷都しました。
 遷都の理由としては、大阪湾からのアクセスが容易で物流上有利なことや、寺院勢力が政治に関わることを防ぐことが考えられます。
 宇佐八幡宮神託事件に象徴されるように、奈良時代には仏教勢力の政治干渉がありました。桓武天皇はそこから自由になるため、寺社の乱立する平城京を離れようとした可能性があります。事実、桓武天皇は長岡京に

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30年日本史00238【奈良】50代桓武天皇*

30年日本史00238【奈良】50代桓武天皇*

 天応元(781)年4月3日。光仁天皇は譲位し、山部親王が即位しました。桓武天皇です。
 藤原百川の推薦によって、朝鮮系渡来人の血を引く天皇が誕生したのです。もし百川が生きていれば、キングメーカーとして大きな権力を行使したことでしょうが、幸か不幸か、百川は先立つ宝亀10(779)年に病死しており、それ以降は有力な政治家が不在となり、桓武天皇が自ら政務を牛耳るようになるのです。
 なお、平成13(2

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30年日本史00237【奈良】蝦夷征討 懐柔策の失敗

30年日本史00237【奈良】蝦夷征討 懐柔策の失敗

 「9月以降に征討する」という話になったものの、大伴益立はちっとも行動を起こそうとしません。業を煮やした朝廷は、宝亀11(780)年9月23日、藤原継縄の後任として、参議であった藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を征東大使に任命しました。さらに、成果を出さない大伴益立を征東副使から更迭しました。朝廷はかなり怒っていたようで、後に大伴益立の従四位下も剥奪しています。
 しかし、藤原小黒麻呂もまた、

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30年日本史00236【奈良】蝦夷征討 伊治呰麻呂の乱

30年日本史00236【奈良】蝦夷征討 伊治呰麻呂の乱

 宝亀7(776)年4月から、再び戦闘が始まりました。
 このときの紀広純ら朝廷軍の作戦は、蝦夷のうちの一部を手なづけて味方に引き込むというものでした。蝦夷の出身である伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は、この懐柔作戦に応じ、朝廷に帰順して蝦夷征討に加わるようになりました。
 9月13日には、朝廷軍は蝦夷の住人395人を捕らえ、九州の大宰府に強制的に移住させました。11月29日には同様に358人を大

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30年日本史00235【奈良】蝦夷征討 桃生城襲撃

30年日本史00235【奈良】蝦夷征討 桃生城襲撃

 さて、井上皇后の事件と並び、光仁天皇が在位中に最も頭を悩ませたのは蝦夷(えみし又はえぞ)の問題でした。蝦夷とは東北に住む住民に対する蔑称で、「征討」とは悪人を討つという意味ですから、「蝦夷を征討する」などというのは完全に朝廷側から見た一方的な表現なのですが、歴史書では「蝦夷征討」と書かれていて他に適当な表現もないので、本稿ではこの表現をそのまま使っていきます。
 宝亀5(774)年1月20日。そ

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30年日本史00234【奈良】49代光仁天皇

30年日本史00234【奈良】49代光仁天皇

 宝亀元(770)年10月1日。藤原百川が画策したとおりに、白壁王が即位しました。光仁天皇です。即位時の年齢は61歳で、神話時代を除くと史上最高齢となります。皇后は聖武天皇の娘・井上内親王です。
 ちなみに、文武天皇以降、ずっと天武天皇の血を引く皇族が皇位を継承してきました。
光仁天皇の即位によって皇位は天智系に戻り、この後現代に至るまで、天智系がずっと皇位を継ぐことになります。
 光仁天皇即位直

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30年日本史00233【奈良】弓削道鏡失脚*

30年日本史00233【奈良】弓削道鏡失脚*

 さて、宇佐八幡宮神託事件の結果、道鏡が天皇位に就くことは避けられました。しかしこの直後、称徳天皇は道鏡の出身地である弓削(大阪府八尾市)に離宮「由義宮(ゆげのみや)」を造営しています。道鏡愛しさのあまり、その出身地を見に行きたいと考えただけなのか、はたまた、道鏡を天皇位に就けることをまだ諦めていないのか、真意はよく分かりません。
 ところが、神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇は52歳で崩御

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30年日本史00232【奈良】宇佐八幡宮神託事件*

30年日本史00232【奈良】宇佐八幡宮神託事件*

 神護景雲3(769)年。皇室を揺るがす大事件が起きました。宇佐八幡宮(大分県宇佐市)で「道鏡を皇位につければ世は平らかになる」との神託が出たという話が、都に伝わってきたのです。
 もちろん道鏡は皇室の人間ではありません。もし天皇の血筋でない者を天皇位に就けられるならば、天皇という存在が根本から崩れてしまいます。
 一体なぜこんな神託が出されたのでしょうか。普通に考えれば、道鏡との恋愛に夢中になっ

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30年日本史00231【奈良】和気王の変と氷上志計志麻呂の変

30年日本史00231【奈良】和気王の変と氷上志計志麻呂の変

 藤原仲麻呂がいなくなった政府では、弓削道鏡の存在感が日に日に増していきました。そして、僧侶の身でありながら政務を担う道鏡を、皇族たちや藤原一族たちは苦々しい思いで見つめていました。
 天平神護元(765)年3月5日。加墾禁止令が発布されました。有力寺院などによる大量の開墾を制限するもので、墾田永年私財法による弊害を軽減しようというものでした。政府の土地政策はまるで迷走しています。
 同年8月1日

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30年日本史00230【奈良】48代称徳天皇

30年日本史00230【奈良】48代称徳天皇

 藤原仲麻呂の乱の結果、淳仁天皇は廃位されました。譲位したのではなく廃位されたため、「上皇」を名乗ることはできません。そして、孝謙上皇が再び即位することとなりました。同一人物が二度即位することを「重祚」と呼ぶのでしたね。二度目の即位では、称徳天皇と呼ばれます。
 称徳天皇は、天皇が現役の僧でもある日本史上唯一の例です。後に出家する上皇が多数いますが、全て「上皇」になってから、つまり天皇の位を退いて

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