見出し画像

ジンバブエ(ダンスは戦にも使われていた)

ダンスの定義は様々である、世界中の文化に見られる様々なダンスは、古典的な西洋思想の考えでだけではあまりに狭い見方であろう。

プラトンアリストテレスは、ダンスを何かの模倣(再現的)の芸術と同一に考えていた。アリストテレスは「ハーモニーの欠けたリズムだけがダンサーの模倣手段である。人や物事に向き合うその人のリズムによって、その人が何をしているのか、何に苦しんでいるのか、その人の性格までを表現するからである」ダンスは見解の違いから、競うものにすぎないとしても、自然を「写し取るもの」という理念は西洋では一般的である。

ダンスは第一に美の創造である。とジゼルの作詞家テオフィール・ゴーティエは述べる。美しい姿勢で目を満足させてくれる美しさの展開の芸術であると答えている。

画像1

このように西洋の語彙で定義しようとすると、次の問題が生じる。ダンスを、芸術・宗教・伝統と考えれるが、日常のものと考えにくいのである。

サハラ以南のアフリカ全域では、当然日常として存在している。すなわち、ダンスを定義することは、人生、生活、それ自体を定義することにままならない。

バンツー族が顔を合わせた時の日常の挨拶は「今日は何踊るの?」である。(www)

画像2

アシャンティ族にとっても、なぜそれほどまでにダンスが重要であるのか?と訪ねられても「我々が生きているから、石じゃないからね」と答えたという。(笑)

2000年にも及ぶインドのダンスも、超自然的なものへの憧れを伴う、物語舞踊の一部であり、個人の芸術活動と精神啓蒙を促すと考えられているわけで、美の創造とは少し違うのであります。

現代のダンスをあらゆる伝統を公平に評しようと活動する学者ロジャー・コープランドはこう主張する「見られる為に創られた動き」と定義されると。このことは、おそらくプロレスリング、奇術師、あるいは法廷で争う弁護士の身振り手振りまでを含むことになるであろう。

しかし、医者が手術前にゴム手袋を引っ張るのは含まれていない。(笑)

人類学者ジョアン・ケアリイノホモクは「ダンスは瞬間的に移ろう表現、意図的にコントロールされたリズム運動によって生み出される(中略)」また彼は、ダンスの最終的な判断をダンサーと見る側に委ねてもいる。

画像3

ダンスの形態やその意味が変化してきているのは、ダンサーが新しいものに追いつきたいと感じ、新しい状況に適応させて古いものを作り変えたりして起こる。この柔軟な適応性について顕著な例を示してくれるのは、アフリカ南部のショナ語族の1グループ、ゼズル族の歴史だろう。(Zezuru Shona)

19世紀に起こった部族間の戦争を通して、ゼズル族はダンスを基盤とした独自の戦略をとった。敵の襲撃があると、若い女性がコーラスラインのような陣形になり村の外に向かって突撃する。老人たちは木のブロックや、瓢箪、などでドラムしポリリズム的な伴奏をはじめ若い女性達が肩や腰を使い注目を集めている隙に村の戦士たちが集結する。すると突如合図により分裂し、そこから戦士達が突然現れ侵入者を一蹴する。(そんなの一回か二回しか通用しないじゃないの 汗)

これを「ムペンデ」で呼ぶ(速やかに走るネズミの意味)※もしかしたらモグラ」を意味していた可能性も、モグラは多産、性欲、家族の象徴と考えられていて、モグラは多産、性欲、家族の象徴と考えられていたからです。


ショナの領域にもヨーロッパ人が入り込み先住民たちの戦いは終わったが、ムペンデは下品なものとして禁止された。そこでゼズルの長老議会が、エルサレムへ旅する夢を見た、そこで幼子イエスを称えてダンスをすると、イエスは非常に喜んだと主張。宣教師達は敬虔な気持ちを咎めたくなかったので、禁止を解除しムペンデは「エルサレマ」と名前を変えて存続している。

現在、20年以上の月日によりゼズル族達は白人社会に溶け込み、エルサレマはビアホールなど社交の場で踊られ古い慣習はなくなり、より煩悩的で荒々しく変化する。本来誘惑のダンスなのだから致し方ない。それを危惧した人々が劇場ダンスとして復活させ伝統と誇りの大切さを再度提唱。そうなると、形式的なステップの数々やアクロバットなどの芸も含みだし、今日のエルサレマ国立舞踏団となった。また葬式などにも踊られるようになり、パフォーマンスの呼び声が高くなり親しまれている。

「エルサレマ」は男女が近づいて一体となり、官能的なダンスは踊られるが決して触れ合うことはない。他の部族と同様、頬を寄せ合って踊るヨーロッパの踊りは、公の場にふさわしい行動理念から外れるものであると考えられているのである。



この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?